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短編集98(過去作品)

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 話をしてみたくなってきた。
 だが自分から声を掛けるようなことはしない。あくまでも相手に任せていた。そこには男としてのプライドと、
――こんな女――
 という、どこか卑下して見ているところがあったからだ。少なくとも四郎以外の男性は見向きもしない女。四郎だけが関心を持ったなど、まわりから見られたくなかったからだ。
――もし、嫌ならすぐに別れればいいさ――
 軽い気持ちだった。付き合うところまでの想像はなかなかできるものではない。他の女性とであれば簡単に想像できたであろうが、客観的に見て、四郎と一緒に歩いている姿を想像することは困難だったからである。
――だが、この気持ちは何なのだろう――
 今まで女性と知り合って付き合うまでに感じていたときめきを感じるわけではない。身体が宙に浮くような心地よさを感じるわけでもなく、どちらかというと重たい感覚だった。きっと身体が宙に浮くような心地よさは、抱き心地を含めた女性との交わりまでを感じていたからだろう。
 さゆりにはそれを感じない。身体の関係を想像すると重たく湿った空気に包まれてしまうように感じるのだ。体型は男性に好かれるようなものではないが、決して太っているわけではない。どうして重たく感じるのか分からなかった。
 そのうちにさゆりの方が近づいてきた。お茶に誘われたり、積極的だった。
 断る理由もなく、一緒に出かけたが、なるべく会社からは離れたところに行くように話すと、
「うん」
 と頷いて下を向いていた姿が印象的だった。照れ隠しのようにも見えるし、他の人に見られたくないのはどうしてなのか、すべて分かっているようにも思う。
 意外とお洒落な喫茶店を知っていた。喫茶店というよりもカフェといった雰囲気で、女性一人、男性一人の客も多いようだ。
「私ね、ここの常連なんですよ。ピザなどおいしいですよ」
 と言って、白いカフェテーブルの対面でニコニコ笑っている。ここがさゆりにとっての自分ひとりになれる聖域のようなものなのかも知れない。
「なかなかいい店だね。気に入ったよ」
 いずれ一人で来てもいいと思えるほどの店である。昼下がりなど、女性客も多いことだろう。だが、来るなら一人でと考えていた。まわりの女性を気にしながら食事をするに違いないが、ここでは決して女性に視線を浴びせることはないはずだ。それは四郎自身の中で決めたルールに反するからだった。
――人の聖域までは冒せない――
 特にさゆりのような女性の聖域を侵すということは、自分が浅ましさを表に出すことになるからだ。四郎自身、自分の中に浅ましさを持っていないとは思っていない。
――人間、誰しもどこかに浅ましさを持っているものだ――
 と思っていて、それを表に出すか出さないかで、表に出ているその人の価値が決まってくるのではないかとさえ思っている。
 さゆりと話していると、どこか懐かしさを感じる。子供の頃に感じた何かを思い出させるところがある。見た目よりも可愛らしく感じるのは錯覚ではないかと思っていたが、懐かしさを感じたことで、感情が真実であることに気付き始めた。
 だが、それが愛情だということはないだろう。少なくとも四郎は認めたくない。下手をすれば同情に近いかも知れない。有里のようにあからさまに同情を即すような女性になかなか感じることのない同情をさゆりに感じていた。
 四郎が同情を感じていることをさゆりに悟られてはいけない。それだけはタブーなのだ。さゆりのような女性は、同情には敏感ではないかと思う。今までに何かの情を感じたのだとすれば、それは愛情ではなく同情だったからだ。
 ひょっとして錯覚したこともあったかも知れない。愛情というものだと信じて疑わなかったものが同情だと分かった時、想像しただけで背筋に寒さを感じる。まさしく冷や汗が出てくるようだ、女にとって耐えられるものではないだろう。もしそれに耐えられるとすれば、さゆりという女性、かなり強い精神状態と、洞察力を兼ね備えている。そう考えると興味が湧いてくる自分に気付いた。
 さゆりは、至れり尽くせりだった。
 気の遣い方もスムーズで、相手に悟られることのない気の遣い方をしている。違和感がないのが一番ありがたいことで、知らず知らずのうちに優越感に浸っているが、それもさゆりがさりげなく導いてくれたものだ。
 その頃になると、自分が彼女と付き合っている感覚に陥っていた。まわりを気にすることもなく、付き合える。さゆりもまわりを意識していないし、二人だけの世界を大切にしてくれる。それが至れり尽くせりの感覚に結びついているのだ。
 一気に四人の女性を付き合うことになってしまった四郎。まるで盆と正月がいっぺんに来たような感覚だが、後ろめたさがないわけではない。それでも続けるのは、最近の人生がうまく行っているのを感じるからで、一生のうちにこんな時期はそうはないはずだからである。
――どうせなら楽しまないといけないな――
 神様から与えられた神聖な時期にさえ感じるのだった。特に付き合っている四人の女性がそれぞれを知っているはずもなく、ひょっとして一人にバレれば、すべてがパーになってしまうかも知れないという危惧を抱いていたが、その時はその時、仕方がないことだと割り切った気持ちにもなっていた。
――とにかく人生うまく行っているのだ――
 これが一番強い気持ちだった。
 付き合う相手が多くなればなるほど、男女の関係が薄いものに感じられる。
 愛情とは甘く切ないものだが、一人に対しては何よりも重たいものであるはずだという感覚でいたのが、ウソのようだ。
 それでも数人と付き合っていれば、一人の女性と一緒にいる時は重たい感情になれる。それはその時だけ、他の女性のことを忘れているからだ。一人を徹底的に愛することができる。それも数人と付き合って感じたことだ。
 だが、こと体を重ねる甘く切ない時間に関しては薄い感じがしている。小さい頃に感じた思いに遡るのだが、
 あれは京子を抱いた時に思い出した村の鎮守のお祭りだった。
 太鼓の音とともに、境内の裏にある茂みの中を通った時のことだった。普段だったら、何気なく近道をするつもりで通っている茂みも、お祭りの時はさすがに縄が引かれて入れないようになっていた。
 子供にはそんなことは関係ないと思い、その日も裏道として茂みを使ったが、さすがに夜、真っ暗で気持ち悪かった。遠くから聞こえてくる太鼓の音も篭って聞こえるくらいだった。
 音が篭って聞こえてくると、茂みの中の空気が湿気ていて重たいものに感じられた。確かに森になっている茂みの中は、前日に降った雨がまだ残っているようで、少しぬかるんだところまであった。
 森の奥にある祠の近くまで来ると、何か声が聞こえてきた。その時に聞いた声はまさしく湿気を帯びた声で篭って聞こえてきた。
 何の声か、最初は分からなかったが、子供のくせにどうして分かったのか不思議なくらいだが、身体が熱くなるのを感じていた。
 甘く切ないという言葉が思い浮かんだのはその時が初めてだった。
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次