短編集98(過去作品)
だが、男という動物はどれほど貪欲にできているかということを思い知らされたのも、彼女ができてからだ。
――自分の中で何かが弾けたのかも知れない――
一人の女性で十分なはずなのに、まわりの女性を見ると、今まで見られていた視線とはまったく違ったものであるように思えてならない。
それが自分に対して好奇の目であったり、尊敬のまなざしであったり、すべてがいい意味での視線を感じている。冷ややかで重たい視線が、暖かく針で軽くつつかれるようなむず痒さを含んだ視線へと変わってくる。むず痒さが血液の循環をよくし、暖かさが次第に熱さを呼ぶものなのだということを教えてくれる。
彼女と知り合ったのは、友達と行ったことのあるスナックだった。
初めて行った時は、連れていってもらったという意識の強さからか、まったく会話になっていなかったのを覚えている。店に入って最初の一時間が、まるで三時間くらいに感じられたのも、あまりスナックなどに行くことのなかった自分の居場所を探すのに時間が掛かった証拠である。
初めて行ったのは冬だったが、薄暗い部屋の中で、次第に暖かさを感じるようになり、それが気がつけば汗が吹き出すほどの暑さに変わっていた。汗が引いてきたのが、ちょうど店に入って一時間が過ぎた頃だった。
慣れてきた頃には、薄暗さにも目が慣れてきていた。カラオケも自分から選曲していたし、場の雰囲気が読めるようになっていた。
――次は一人で来てみよう――
と感じたのは、その時からだった。
一人で行ってみようと思うこと自体、今までの四郎から考えられないことだった。何かが起こるのではないかとすら感じていたほどで、きっと表情から気持ちが表れていたに違いない。
店の中に入ると、一人だけ女性がカウンターに座っていた。彼女は四郎が入ってきたことに気付いていたはずなのに、振り向こうとはしない。それが却って四郎にとって気になる存在にしてしまった。
「こんばんは」
ママに挨拶すると、ママもニコヤカに軽く会釈をすることで挨拶を返してくれたが、視線は半分女性を向いていた。二人の間でアイコンタクトでもあったかのようである。
「こんばんは」
それまでまったく意識がないかのように振り向こうとしなかった女性が、横を向いて笑顔を見せている。その表情は、今まで見た女性の中で一番輝いて見えた。
他愛もない会話を始めたが、これほど自分が饒舌であるなど知らなかった。スナックに来てからママとの会話もほとんどが、ママから振ってもらった話題に対して、一言ずつ返していただけで、そこから新しい会話が生まれるようなことはなかった。さぞかし、ママも四郎との会話には気を遣ったに違いない。
――他愛もない会話ほど、難しいものはないのかも知れない――
と感じたほど、一方通行だった。
――彼女と、ママとの会話でどこが違うというのだろう――
ママとの会話は最初からママ主導の会話だった。しかも相手は海千山千の会話のプロだという意識があった。下手なことを言っては自分の性格を丸裸にされてしまうのが怖かったという意識が働いていたことに気付いていながら、認めたくなかったに違いない。
だが、彼女との会話において、彼女の視線を見る限り、好奇心の塊のような視線を浴びせる。それはまるで、小さな子供が何事にも興味を示すというようなそんな表情である。
「私、名前を京子って言います。よろしくお願いします」
会話が続いていて、うっかり名前を聞き忘れていた。それだけ会話がお互いにとって楽しいものであった証拠だろう。
「僕は小松四郎です。こちらこそよろしくお願いします」
「あら、四郎さんっていうの? 以前にもここの常連さんにも四郎さんっていたわ」
そういえばこの店では、姓を小松と名乗っただけで、下の名前を名乗ったことはなかった。実際にそこまで話すことはないと感じていたからだろう。プライベートな時間ではあったが、それでも私生活とは切り離した中間的な存在の店だったからだ。
「その四郎さんって、どんな人だったの?」
ママの茶々に、京子が反応した。
「ええ、物静かな人で、余計なことは一切喋らない人だったわね。でも、教養はあったわ。物知りって彼のことを言うんだって思ったくらいだもの」
ママの話を聞きながら、京子は四郎を見つめた。好奇の目から尊敬の目へと変わってきたのが分かる。四郎はその目を待っていたのだ。
待っていたわりに、これほど照れくさいものはない。先ほどまで饒舌だったにも関わらず、何を話していいか分からなくなった。顔はきっと赤らんでいるに違いない。だが、それも会話に疲れたと思ってくれていれば幸い、少しアルコールが入ってきた。
京子とは、それから会話はなかった。尊敬のまなざしを感じた瞬間から、四郎にとって京子は彼女になったも同然だった。京子も四郎の気持ちを知っているのか、しなだれるような気持ちになっていった。
店を出る時は一緒だった。それから二人がどのように歩いたのか分からない。気がつけばホテル街。そのまま何の抵抗も示さず、お互いに手に手を取り合って怪しげなネオンのゲートに消えていく。
もちろん、ホテルに入るのは初めてではない四郎は、自分がエスコートしている意識にはなっていた。だが、横にいるのが京子だという意識はことのほか薄く、前だけを見て歩いている。部屋に入って真っ暗な部屋に電気をつけると、
「いや」
と一言呟く京子の口を、自分の口で塞いでいた。それは、四郎にとっての儀式であった。それは相手が誰であれ、相手が喋ろうが喋るまいが、唇を重ねることで気持ちを一つにする時間の始まりを宣言しているかのごとくである。
暖かい唇は濡れていて、想像通りだった。冷たくなった頬に手の平を当てて、冷たさを味わっている。次第に手の平の暖かさが頬に乗り移ってくる瞬間も、四郎にとって快感だった。唇を離したのは、手の平が頬の冷たさを感じなくなるまで続いた。さぞや長い時間だったに違いないが、感じていた時間はあっという間だった。
そこから先は、漏れてくる京子の淫らな声を遠くで聞きながら、彼女を抱きしめていた。
遠い記憶のどこかで、淫らな声を感じていたのを思い出す。
遠くの方で聞こえるのは、淫らな声だけではなかった。何かを叩く音、静かな中に響いてくるその音は大きな太鼓の音だった。
――村の鎮守のお祭り――
小さな頃に父親が連れていってくれた田舎の祭り。
「お父さんは、このお祭りが毎年楽しみだったんだ」
と浴衣を着て、うちわを片手に持ちながら、もう片方の手で四郎を引っ張っていってくれた。
――どうして父親の面影を今この場所で――
不思議に感じたが、太鼓の音が懐かしさを誘うのは間違いではなかった。何かの儀式の時に太鼓の音を思い出していたからである。
大学の入学式、会社に入ってからの入社式。どちらも響いてくるはずもない場所なのに、耳の奥で感じた太鼓の音を、今まさに思い出すことができた。
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次