短編集98(過去作品)
と思うことでも、れいこにとっては許せない。いや、れいこ以外の女性でもひょっとするとこの散らかし方には堪忍袋がいくらあっても足らないかも知れない。よく親から叱られていたものだ。
「だがお前のようにお洒落にばかり気を遣って金銭感覚がない女よりマシじゃないか」
というと、
「何言ってるのよ。お金はこういうことに使うのよ。人との人脈だって、相手に信用されるようにするためには少々無理することだって必要だわ。いわゆる必要経費ってやつよ」
もし、新谷が冷静だったら納得していることだろうが、苛立っている新谷にそれは通用しなかった。売り言葉が買い言葉に変わるのだが、言い訳がましいことを言ってしまっているのは自分でも分かっている。
だが、れいこがあまりにももっともなことを言うので、男として黙っておけないという他愛もない意地でもあった。それに対してれいこは追い討ちをかける。
「あなたのそのいい加減な性格がまわりからの信用を失っていくのよ。もっとも、あなた自身は気付いていないかも知れないわね」
その時は悔しいが言い訳ができなかった。言い訳をするだけの根拠のある言葉が見つからなかったからだ。だが、彼女の言っていることを完全に理解していたわけではない。むしろほとんど実感が湧かなかった。実感が湧き始めたのは、れいこと別れてからで、ちょうど、新谷が中間管理職に就いてからしばらくしてのことだった。
――実に皮肉なことだな――
中間管理職に就いて、自分が思ったよりも管理職としての仕事をうまくこなせないのを最初は分からなかったが、そのうちに思い出したのが、れいこのその時の言葉だった。
きっかけは覚えていないが、その言葉を思い出してしみじみ感じてしまうことに、つい皮肉なことだと感じてしまっていた。
れいことの別れは、ちょうど三十歳を迎える頃に訪れた。
別れが近いことはお互いに意識していたが、その頃になると喧嘩もなくなっていた。どちらかというと様子を窺っているようにも思え、哀れみさえ感じていたくらいだ。
却ってそんな雰囲気が空気を重くする。実際の空間よりも狭く感じられ、息苦しさを感じるようになる。
「別れましょう」
言い出したのはれいこだったが、その言葉を待っていた。
――俺って男はずるい男なんだな――
相手に言いにくいことを言わせて、それに納得する形を取る。そんな自分の卑怯な振る舞いに少し自己嫌悪に陥った。
――納得ずくで別れたはずなのに――
別れてすぐに、後悔が頭を擡げた。寂しさが襲ってくるのは覚悟の上だったはずなのに、その寂しさを素直に受け止めることができない自分がいた。
――相手に言わせてしまったことを一番後悔している――
そこから始まった自己嫌悪はしばらくの間、新谷に鬱状態をもたらした。
仕事の上でもうまく思ったように回っていかない時期でもあり、人生というものを大きな目で初めて見た。
大きな目で見るということは漠然と見つめるということでもある。今まで漠然と見ることよりも、その時々の自分を強く見つめようとしてきたので、分からなかったことも分かってきた。
鬱状態が晴れてくるのが分かってきた。長いトンネルと車で走っている時に、目の前に薄っすらと見えてくる明かりを感じた時に似ている。
黄色いトンネルの中で果てしなく続くのではないかと思いながらも、目の前の一点を見つめ続ける。そこには出口となる明かりが見えるシュミレーションをいつも頭に思い描いているからだった。
――よし見えた――
その一瞬が鬱状態の出口、見えればそこから先は自分の想像どおりである。見えた瞬間から、鬱状態というのは抜けているのだ。
れいこの罵声は、新谷の中で忠告として残った。だが、それが活かされることはなく、意識はすれども、うまく行かない毎日を送っていた。
三十歳代になり、新谷は新しい恋人ができた。
彼女は物静かな女性で、れいこと付き合っていた頃のように喧嘩をすることはなかった。
歳も新谷より五歳も下で、安心感がある。ちなみにれいこは新谷よりも年上だった。
――年上にも安心感を感じていたが、年下には違う意味での安心感だ――
二十歳代の頃に年下と知り合っていれば、結構短い付き合いだっただろう。新しい恋人と知り合ってそれを感じた。
彼女、名前を敦子という。
敦子は実に静かな女性だった。清楚さが表に出ているのもあるが、単純に人見知りするタイプでもある。だが、新谷に対しては気さくに話しかけてくる。そこが一番嬉しかった。
「あなたといると不思議よね。いっぱい話したいことが頭の中に沸いてくるの」
その言葉は男心をくすぐり、男冥利を感じさせる。
敦子が二十八歳、新谷が三十二歳を迎えた頃、結婚した。
それまで結婚という言葉を口にしなかった敦子が急に、
「あなたと結婚すれば、素敵でしょうね」
と言ったのだ。
もちろん、それまでに新谷も結婚を考えたことはあった。しかし、どうしても踏み切れないのは相手の気持ちを確かめる勇気がないのと、自分の中にあるいい加減さを感じていたからだ。
――いい加減な気持ちで結婚をしていいものだろうか――
と考えていたが、これも実はずるい考えであった。自分から言い出すのではなく、相手が言い出すのを待っている自分が新谷の中に確実にいた。
そんな新谷に対して敦子の
「あなたと結婚すれば、素敵でしょうね」
というセリフはショックだった。相手に言わせたいと思っていたにも関わらず、そんなセリフは想定外、脳天をぶち抜かれた気分である。
そこまで言われれば、男としても黙っているわけには行かない。決して皮肉ではないだろうが、男としての新谷に火をつけた。
段取りも何とかこなし、結婚へとまい進して行ったが、まさか自分でもこれほどしっかりと順序立てて行動できるとは思っていなかったので、実際に一番驚いているのは自分だったのかも知れない。
今までの人生の中で、一番うまくいった時期はいつかと聞かれれば、
「結婚するまでの過程」
だと言い切れる新谷だった。
敦子と結婚して一番よかったのは、れいこのように金銭感覚の疎さがないことだった。さすがにれいこに対しても、喧嘩をしていた頃に感じていた疎さがそれほどひどかったとは感じなくなったが、それでも、金銭感覚がしっかりした女性はありがたい。
――結婚を考えるなら敦子のような女性――
結婚して正解だったと感じた。
幸せな結婚生活だった。
二人だけの新居を構え、それぞれの実家にも近く、何よりも嫁姑問題がないことが一番気が楽だった。新谷の母親と敦子は結構気が合っていた。お互いにモダン至高でありながら、性格的には古風なところも持ち合わせているところがよかったのだろう。お互いに痒いところに手が届くような気の遣い方のできる仲になっていた。
敦子の父親と、新谷も気が合っていた。事あるごとに実家に遊びに行ってはコミュニケーションを取り、お互いの家庭を行き来し合うことがうまく行く秘訣でもあった。
転勤のない家庭は静かなもので、別に波風が立つこともなく、平和に暮らしていた。
結婚相手としての絶対条件に、
――喧嘩をするようなことのない人――
作品名:短編集98(過去作品) 作家名:森本晃次