クラゲの骨
「そもそも、この人に主観なんかあるのかしら?」
と思うほどに、自分の意見を持っているわけではない。
そんなことを考えていると、この男とは、もう一緒にいられない。
「何で、こんな男を好きになっちゃったんだろう?」
と、お唯は考えたが、お唯も、それだけ、今までいた範囲が狭すぎて、広い世界を分かっていなかった。
それだけに、密偵は密偵のまま終わっていればいいものを、密偵としては優秀であったとしても、人を見る目はほぼ赤ん坊。そんな彼女にとって一番の問題は、
「信じる力もないくせに、人を信じてみようと感じた。一種の無鉄砲さだったのだろう」
ということであった。
ただ、この無鉄砲なのは、無意識のことなのか、それとも、好奇心から来るものだったのかによって、大きく違う。
無意識であれば、まだくのいちに戻ることもできるかも知れないが、好奇心が湧いてのことであれば、もう、過去には戻れない。自分ではどっちなのか分からなかったが、お唯にとっては、この村を出たとしても、もう、過去にいた場所に戻ることもできない。
「裏切者」
であることに変わりはないからだ。
だが、裏切者であっても、本人は意識してこれからも生きていくことになるのだろうが、すでに、い来主側では、お唯のことは頭の中になかった。
すでに、悪知恵の働く連中は、その場で立ち止まることのできないという性格から、別の女を抱え込んでいて、他にできることを模索していたようだ。
そのおかげで、お唯に追手が差し向けられることもなく、やつらにとって、お唯は、もうどうでもよかったのだ。
下手にお唯に執着してしまうと、新しく雇った次の密偵を育てることが困難になるからだ、
まずは、かわいがるところからやる。優しく抱いて、相手の氷のように分厚い結界を溶かしてやらなければいけないからで、それまで恵まれなかった自分の運命を暖かく包んでやれば、相手は
「この人のために」
ということになるのだ。
そもそも、感情が欠落しているところなので、結界をこじ開けさえすれば、あとは、空っぽの中に、自分というものを注入してやればいいだけだった。
お唯もそうやって、男に注入された心も身体も洗脳される男の液によって、一度は、
「自己破壊」
を起こさせることが必要なのだ。
元々何も入っていないはずの心の中なので、そのまま侵入すればいいのだろうが、下手にとろけさせたところに注入するのだから、一度構造を崩壊させる必要があるということなのだ。
お唯もそうやって、依頼主から注入されたものを、もう一度自己破壊を起こさせるには、一時的とはいえ、記憶喪失状態に陥らせることだった。
「記憶が戻らなかったら、どうするんだ?」
と言われるかも知れないが、そこがくのいち、
彼女にとって、それくらいのことは朝飯前のことで、最初から、記憶が戻る前提での記憶喪失になるというわざは、それほど難しいことではないのだった。
だから、自分の名前を忘れてしまったというのは、別に演技というわけではなく、本当に記憶喪失になっていたのだ。
ただ、その記憶が失われた状態は、自分から招いたことだったので、
「旦那にバレないか?」
という危惧があったが、そんな心配は無用だった。
旦那は、その記憶喪失を見て、彼女への気持ちをハッキリさせたのだろう。
ただ、その時だけが、この男性が、
「男」
として一番輝いていた頃だろう。
一時的な自己破壊のために行った、
「意識的な記憶喪失状態」
であったが、気が付けば、その状態を抜けていて、そうすると、目の前には、それまで感じなかった人に、男を感じていたのだ、
「何と、頼もしい」
と感じたことだったか。
まさか、これが人生のうちで、
「男だった」
という唯一の時期だっただなんて思いもしなかった。
その時に、お唯は騙されてしまった。何と言っても、赤ん坊状態でやってきた女なので、一度自己破壊を起こし、記憶が戻ってきた瞬間も、負けず劣らずの赤ん坊状態だったことから、見誤るのも、無理もないことだったに違いない。
そんな状態で、お互いに結婚した。
妊娠し、子供が生まれるまでは、間違いないなく、
「オシドリ夫婦」
であり、これほどのお似合いの二人はいないというほどに感じていた。
「こういうのを、幸せというのだろうか?」
幸せという言葉は知っていたが、それだけだった。
自分で味わうことができるようになると、もう、過去はどうでもよくなった。一度戻ってきた記憶だったが、消し去ってしまいたい記憶になったのだった。
その記憶の抹消は、もう一度自己破壊を起こすと、今度は本当に記憶を失ったままにしかならない。
そのことは分かっていたので、自己破壊は封印する必要があった。
そして、子供がせっかく生まれたのに、それを里子に取られてしまう。肝心の旦那は、逆らうことができない。
「こんな人のどこに男を感じたのかしら? それが一番の間違いだったのかも知れないわ」
と、お唯は感じた。
間違った感覚でないことは確かだろう。
それにしても、生まれたのが、女だったら、里子に出されてしまうというのは、一体どういうことなのか?
要するに、ここでは、女の子が育つ環境ではないということ。そして、嫁は、他からもらうということがこの村のしきたりのようになっていることなのだ。
このどちらも、他の村にはないことである。とにかく、この村に生まれた女の子は生まれながらに不幸だということだ。
どうしてこんなことになっているのか、納得のいかないお唯は、旦那に問い詰めた。
「何がどうなってるの? あなただって、子供ができたって聞いた時、あんなに喜んでいたじゃない。でも、生まれ落ちた子供が女の子だと知った時の、あのこの世の地獄を見たかのようなあの顔は、今思い出しても、ゾッとするわ。本当にどういうことなのよ? ちゃんと説明して」
と詰め寄ったが、その答えを教えてくれることはなかった。
どうやら、旦那も詳しいことまでは知らないようだったが、それでも、ウソでもいいから、もう少し、相手を説得するように努めれば、見え方も違ってくるはずだったのだ。
それなのに、どうしてこんなことになったのか、それを思うと、もう、旦那を旦那だと思うことはできなくなっていた。
つまりは、自分は嫁ではなく、
「ただ、子供を作るための道具、しかも、男の子を作るためのもの」
ということであった。
後から知ったことだが、この村の男子とよそから来た嫁の間にできた第一子が、女の子であれば、次に男の子が生まれる可能性は、かなり低いということだった。旦那があれだけ落胆し、この世の終わりを見たかのようになったのは、女の子だっただけではなく、
「お唯とでは、男の子を作ることは難しいのではないか?」
と感じたからであろう。
実際に、できたのが女の子だったのだから、旦那がそう思ったとしても、それは無理もないこと。
「だけど、あんなに落胆した顔は、ないわ」
と、お唯は考えた。
その子は、そのまま、里子に出され、旦那は、それまでずっと何も言わず、ただ毎日を農作業をして暮らすだけだった。