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クラゲの骨

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「前に一度」
 なのだ。
 何度も同じ感覚であれば、
「前に一度」
 などとは言わず、何度も感じているということを意識しているはずなのだ。
 まわりは、
「この光景、何度目なんだ?」
 と感じたとしても、二人にとっては、二度目でしかないのだった。
 そんな両親を見ていると、克彦は、
「自分は、決してあんな結婚はしたくないし、あんな家庭は築きたくない」
 と考えるようになった。
 何よりも、
「子供がかわいそうだ」
 と思ったのだが、それは、他人事として自分を見ているわけではなく、あくまでも、
「あの二人を親に持った子供」
 という、自分とは別人をイメージしてのことだった。
 そして、その時の自分の目線は、大人になった自分であり、父親や母親が、まるで自分の友達でもあるかのように二人には短さを感じていたが、あくまでも、子供とはかなりの教理があると思って見ていてのことだった。
 克彦は、両親に対して、
「限りなく他人に近い肉親」
 だと思っていた。
「他人だと思えれば、これほど気が楽なことはないのに」
 と思うのは、やはり、父親も母親も、自分の両親として認めたくないほどの性格的なところに、大きな結界があるからであろう。
 もっとも、親でなければ、最初から無視して意識しないのだから、やはり、肉親というワードは、大きな魔力を持っているに違いないのだ。
 克彦は、優しさというものをはき違えていた。
「自分を表に出して、好きな人に対して、いきなり好きというのは、相手のことを考えていないから、ひそかに思っているのが優しさだ」
 という感覚でいるようだ。
 それも一つの優しさなのだろうが、本当の優しさは、
「その人が何を求めているのかを理解してあげ、それが自分にできることであれば、全力を尽くす」
 というのが、優しさというものではないだろうか。
 そんなことを考えていると、克彦にとって、
「優しい」
 と思える女の子が現れた。
 高校二年生の克彦だったが、その女の子と知り合ったのは、友達の紹介からだった。
 克彦の高校は男子校で、学校に女の子がいなかっただけに、学生服を着た女ののに対しての執着は、ハンパではなかった。
「お前、その露骨な視線、やめとけよ」
 と、友達に言われて、ハッとして気づくこともあったくらい、気が付けば女の子を目で追ってしまっていることもあったくらいだった。
「ああ、またやっちゃってたな」
 と照れ笑いをしたが、目で追ってしまうというくせは、皆にバレているようだった。
 指摘してくれる友達は数少なかったが、してくれないよりしてくれる方がありがたいと思っている。
 それでも、さすがに顔が真っ赤になり、心臓の鼓動の激しさに、呼吸困難が襲ってきそうになるのを、必死になってごまかそうとすると、却ってすぐに楽になれるような気がした。
「俺に彼女ができないのは、そんな露骨な視線に気持ち悪さを感じるからなのかな?」
 と、指摘してくれる友達に聞いたが、
「そうかも知れないな。だけど、それだけではないかも知れない。お前が見つめている時、何を考えているのかが分からない方が、俺は怖いきがするんだけどな」
 と、友達はいうのだった。
「そうなのかなあ?」
 と考え込んでいると、
「じゃあ、彼女を作ればいい。そうすれば、目移りすることもないだろうからな」
 と言われた。
「あ、いや、俺に彼女なんて」
 と謙遜した様子で言ったが、本心は、
「いきなり彼女とかできても、何を話していいのか、どう対応していいのか分からないじゃないか」
 という考えがあり。怖さでいっぱいだった。
 今までに好きになった子は、確か、小学生の頃に一人、でも、好きだという感情ではなかったような気がする。
 次に好きになったのは、中学時代の思春期を意識し始めた頃だったか。エッチな妄想ばかりしてしまって、相手の本質を見るという余裕のなかった頃だったように思う。
 それから女性を好きになったことはなかった。しいていえば、小学六年生の時の、担任の先生だっただろうか。その先生を見ていると、身体がムズムズして、初めて女性を性の対象として見た相手ではなかっただろうか。
 初めての自慰行為で、
「こんなに気持ちいいんだ」
 と感じたものだった。
 だが、その時に感じてから、小学校を卒業すると、中学の同級生の女の子に妄想をいだくことはなかった。
 そもそも、ほとんどが同じ小学校から来た子たちで、一緒に育ってきた相手だった。
 もし、六年生の時、担任の先生に、性の対象というイメージで見ていなければ、ひょっとすると、同級生を性の対象として見たかも知れない。
 学生服には、一年生の時から、妄想があり、エッチなイメージを醸し出していたはずなのに、実際に見ると、そんな気持ちになるどころか、却って皆が子供に見えてくるのだった。
 それだけ、六年生の時の先生がいとおしく感じられていたのであって、そのイメージが、同級生をどうしても、女として見せていないのではないだろうか。
 中学二年生くらいの頃から、大人の女をイメージし始め、そのイメージがずっと変わっていないという気がしてならなかった。
 高校二年生の克彦に紹介してくれた相手というのは、同じ高校二年生かと思うと、大学一年生の女子大生だった。
 高校生から見れば、かなり年上に感じるであろう。相手も、こちらが高校生ということで、新鮮に見えていたようだった。
 本来であれば、年下が年上を見ると、かんり上に見えるのだろうが、逆に年上から年下を見ると、結構近く感じるものだと思っていたが、それは間違いだった、
 想像する中で感じたのは、
「五階から見下ろすのと、五階を見上げるのとでは、その見え方がまったく違う」
 という感覚だった。
 上から見ると、かなり遠くに感じるが下から見上げると、想像以上に近く感じられる。その理由は、単純に、
「高いところが怖いから」
 というだけで、高所恐怖症の人間には、特に感じられることであろう。
 年齢は、それとは違う。
 まず、
「年齢は上から下を見て、思い起こすことはできるが、下から上を見上げた時、実際に経験がないので、想像も曖昧にしか浮かんでこない」
 ということである。
 つまりは、
「成長は時系列にしか進まず、一方向からしか見ることができない」
 ということである。
 高所恐怖症として、本当に怖いと思うのは、例えば五階に上っていて、そこから下を見た時、隣のビルが、三階建てだったとすれば、そこに、屋上があって、人が蠢いているとすれば、三階も、地上も、同じ高さにしか見えず、錯覚を植え付けられることになるだろう。
「恐怖というものは、一体何を凌駕するというのだろう?」
 俗にいう、
「三大恐怖症」
 と言われるものがあるが、
「高所恐怖症」
「閉所恐怖症」
「暗所恐怖症」
 と、それぞれに、それぞれの理由があるのだろうが、共通点もある。
 高所恐怖症は、下を見ているうちに、どんどん遠くなっていく感覚で、狭い場所を想像させる、そのことから、閉所にも通じるものがある。
 暗所恐怖症の側から見ると、
「一歩踏み出して、そこに足場がなかったら、奈落の底に落っこちてしまう」
作品名:クラゲの骨 作家名:森本晃次