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クラゲの骨

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 ただ、先手必勝などという言葉もあるが、戦力が均衡しているのであれば、よほどまわりを見ておかないと、相手を潰したつもりで、こちらを虎視眈々と狙っている者があれば、結果、自分が動いたことで、滅ぼされることになる。
 では、三すくみの状態で、自分が助かろうとする方法が、実はないわけではない。
 その方法としては、考え方を変えることだ。
 自分より弱い方に襲い掛かれば、自分よりも強いものが、自分に襲い掛かってくることは必定である。そうなると、目先を変える必要がある。
 その方法としては、最初の行動からが間違っているという考え方である。
 自分が自分よりも弱い方に襲い掛かるのではなく、逆に、自分ににらみを利かせている相手に襲い掛かるとどうなるか?
 相手は、驚愕するに違いない。圧倒的にこちらの方が強いはずの相手が捨て身で襲い掛かってくるのだ。
 そうなると、第三者として見ていた方は、自分ににらみを利かせている相手への恐怖が消えたので、一緒になって、、自分よりも弱い相手を食い殺すだろう。
 つまりは、自分よりを強い相手を自分よりも弱いやつに、襲わせるように仕向けることであった。
 どうなるかというと、当然、勝ち残るのは、自分が強い相手だけということなので、最後にはゆっくりそいつを、食ってしまえばいいわけだ。
 もちろん、自分よりも弱い相手が、この作戦に気づかなければ成功するということである。
 基本的に誰でも、膠着状態が好きな人などいるはずがない。それを思うと、
「誰かが動くと、それにつられる形で、他の二つも動こうとする。襲われた方は、まさかこちらに襲ってくるなど思ってもいないわけで、しかも、もう一方は自分ににらみを利かせている方だ。そう思うとパニックになってしまい、その時点で、自分の敵ではなくなってしまう」
 ということになるだろう。
 三すくみと言っても、結局は、自然の摂理と一緒で、
「永久に動きを止めることはできない」
 ということであって、ただ、
「動いた方が負けだ」
 という理論がはつぃて正しいのかどうか、それが問題なのだろう。
 今の例のように、
「考え方をちょっと変えるだけで、膠着状態を解消できて、自分が一人勝ちできることもある」
 ということである。
 これはあくまでも、
「自然の摂理としての、三すくみに対してだけいえること」
 であって、じゃんけんや、ゲームなどにおける三すくみには通用しないことである。
 なぜなら、
「人間には思考能力があり、他の動物には思考能力はないが、それを補って余りある本能というものが備わっているからだ」
 ということになるからであろう。
 だから、動物というものと、それ以外では、まったく違った結果をもたらす。それが自然の摂理と、三すくみの関係だといってもいいのではないだろうか。

                克彦とみき

 克彦は、亭主関白な父親に育ったからか、それとも、持って生まれた性格からなのか、優しすぎるところがあった。
 しかも、その克彦が感じている優しさのストライクゾーンはかなり広く、下手をすれば、何でもかんでも優しさからくるものだと、考えているようだった。
 軟弱なところがあるから、そう思うのかも知れない。しかも、優しさはすべてにおいて正義だと思い、正義のほとんどの部分は、優しさからきているものだという考え方で凝り固まっているといってもいいだろう、
 ただ、そんな優しさが成長するにしたがって、自分の目立ちたがりな性格からきているのではないかと思うようになった。
 子供の頃に見ていたアニメや特撮などで、ヒーローがよく独り言のように、格闘シーンであったり、普段の時でも、よく口に出していた。
 それを見て、子供心に、
「恰好いいな」
 と思っていたのだが、今になって思うと、
「なんて、恥ずかしいことをしていたんだ」
 と感じたのだ。
 しかも、無意識にマネをしていて、よく一人でいる時、自分の考えを口にしていたものだ。
「そうだ、あれは自分の考えだったんだ」
 というもので、考えていることが口から出てくるというものが、本当は恰好の悪いことだとは、思ってもみなかった。
 ヒーローがテレビで、自分の思っていることを口に出すのは、
「見えている人に、感情がなかなか伝わらないということからであり、ましてや相手が子供であれば、特にそうだ。別に恰好いいからということではないだろう」
 ということであって、マネをするほど格好のいいことではなく、むしろ格好悪いことだと分かっていても、ついつい口に出してしまう。
 そういう人がまわりにいると、今度は自分がイライラしてしまう。
 どうしてイライラするのか分からなかったが、その理由が自分にあるのだということを分かるのは、一度まわりきってしまわないと分からないことではないかと思うのだった。
 そんな克彦が、優しさはひけらかすものではないという意識があるにも関わらず、それでも優しさに活路を見出すような気持ちになっているのは、
「自分が弱いからではないだろうか?」
 と考えるようになったからだったが、どうしてそのことに気づいたのかと言われると、ハッキリとは分からなかった。
 亭主関白だった父親に、母親はじっと従っていた。そんな母親を最初は、
「可愛そうだ」
 と思っていたはずなのに、そのうちに、
「自業自得だ」
 と思うようになっていたのだ。
 父親のいうことは、いつも間違っているわけではなく、
「いう通りにできない母親が、本当は悪いのではないか?」
 と感じるようになったのが、中学生になってからだった。
 母親は、いつも静かだった。笑ったところなど見たこともないほど、表情を変えることはなかった。
 父親も同じように、いつも無表情で表情を変えることはないのだが、この二人、同じように無表情だと言っても、性格的には正反対だったのだろう。
「お互いに、最初は相手の自分にないところを見つけて、それが新鮮で好きになったのかも知れない」
 ここまで分かるようになったのは、高校生になってからだったが、両親のころを理解できるようになったピークが、ちょうどこの頃だったのかも知れない。
 その頃になると、どちらも嫌いだった。
「どうでもいいわ、好きなようにすれば」
 いつも、離婚寸前まで行って、どこで思いとどまっているのか、結果離婚をしないのだ。
 最終的には母親が妥協して終わりのように見えるが、父親が決して悪いと思ったことはないと思っている。
 母親もそのことは分かっているのだろう。だから、逆に、
「この人は、このままずっと悪いとは思わないんだ」
 という思いが、何度も険悪なムードになった最後に、いつも行きつく場所となっているのだった。
 悪いとは思わないのは、別にそこまで意地が強いからではないと思う。
 本当に悪いと思っていないのだろう。そうでなければ、いつもいつも同じパターンになるなどありえないからだ。
 まるでデジャブであるかのように、時間が巻き戻され、その状態を見てしまうことが、最初に、
「前に一度感じたことがあるような」
 と感じたとしても、一瞬にしてその思いが消えてしまうと、二度と同じ思いを感じることはない。
 だから、
作品名:クラゲの骨 作家名:森本晃次