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クラゲの骨

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 最初こそ、
「どうして自分から逆らおうとはしないんだろう?」
 と、虐げられている母親に苛立ちを覚えていた。
 しかし、次第に、母親が逆らえないのは、自分を見ているからだと、子供のことを考えて、抵抗できないのが分かると、やはり悪いのは父親であるということに、目が向くようになった。
 母親は、きっと息子の自分が自分を見ているのを知っていたのだろう。
 そして、アイコンタクトで、
「あなたを、私が守ってあげるわ」
 という覚悟をその先に見たことで、母親に対しての見方が変わった。
 それだけに、父親の暴挙が目に余るようになると、その頃になると、
「家庭内暴力」
 などという言葉が社会問題になっていることが分かってきた。
 だが、だからと言って、警察が介入してくることもない。政府も何もしてくれない。
 警察が動くのは、殺人が起こったり、事件が起こって警察が出動しなければ動くことはできない。
「警察は、何かないと動かない」
 ということを、ハッキリと認識したのは、その時だったのだ。
「一体、どうすればいいんだ?」
 というような問題はその頃から頻発していた。
 暴力は家庭内だけではない。学校でも、
「苛め」
 という問題があり、家庭内暴力と切っても切り離せない問題として、浮かび上がったことだった。
 苛めの問題は、さらに昔からあった。
 だが、そんなに卑劣であったり、むごたらしいものはなかった。
「いつ、どこでこんなふうになったのか?」
 ということで、一つは、家庭内における立場の均衡が崩れるのと同じで、学校内でも何かの均衡が崩れているのかも知れない。
 苛めというものは確かに昔からあった。だが、ここまで大きな問題にもならなかったのにはいくつか理由があるが、いじめっ子側といじめられっ子側だけではない。
「第三者」
 というのが問題であった。
 もし、庇ったりすると、今度は自分が苛めの標的になってしまうという感情からか、まわりの人間は、
「見て見ぬふり」
 をするようになる。
 戦争のように、宣戦布告をするわけではないので、第三者は、
「どちらにつくか?」
 あるいは、
「中立」
 のどちらかを選ばなければいけないわけではない。
 しかも、その最後の中立というのは、戦争であれば、正しい選択なのだが、これが苛めということになると、
「中立というのは、完全に、いじめっ子側と同じだ」
 ということである。
 ここでいう中立というのは、ただ、
「どちらにも味方をしないという意味での、中立ではない。弱い者が苛められているのを、黙って見ているだけ」
 ということになるのだ。
「強い者が弱いものを虐げる」
 これは、自然界の摂理でもあるのだろう。
「強ければ生き、弱ければ死ぬ」
 という、いわゆる
「弱肉強食の世界」
 それが、この世の、そして、自然界における節理なのである。
 自然界というのは、循環しているといってもいい。
 草食動物は、植物を食べて生きる。そして、その草食動物を肉食動物が食べる。それを人間が食べることになるのだが、食べ終わった残りの骨であったり、残飯などは、肥料として使われ、植物が育つ。
 自然界というのは、そのようにして循環しているのだ。
 しかし、それだけではなく、それぞれがけん制しあって、身動きが取れなくなることもある。それが一種の、
「三すくみ」
 と言われるものである。
「ヘビは、カエルを食べるが、ナメクジに溶かされる。カエルはナメクジを食べるが、ヘビに食べられる。ナメクジはヘビを溶かすが、カエルに食べられる」
 というような形で、
「それぞれ一匹ずつを、密室に入れておけば、まったく身動きの取れない、膠着状態に入ってしまう」
 というのが、いわゆる、
「三すくみの関係」
 と呼ばれるものである。
 自然界には、循環するものもあれば、三すくみのように、それぞれ身動きが取れない状況になってしまうこともある。そんな状態を作り出していることを考えれば、
「神様というのは、本当にいるのかも知れない」
 という考えに至ったとしても、無理もないことだ。
 何の根拠もなく、
「神様はいるんだ」
 と言われても、説得力も何もない。
 しかし、
「自然界の摂理」
 という形で証明されると、信じないわけにはいかないだろう。
 しかも、自分が世の中で、苦しい立場にいるとすれば、きっと、この自然界の摂理の中のターニングポイントにいるだろうから、一番よく分かるはずである。
 そんな時、神を信じてみたいと感じるのだろうから、宗教団体お勧誘というのは、巧みにそのような人間を狙っているのかも知れない。
 この、
「苛め」
 という問題も、自然界の摂理に当て嵌めると何かが見えてくるかも知れない。
 少なくとも、いじめっ子はいじめられっ子の気持ちも、第三者の気持ちもわかるはずはない。いじめられっ子も、他の二つの考えていることなど分かるはずもない。では、第三者はどうなのだろう?
 分からないまでも、いじめっ子といじめられっ子がいるだけで、自分がいかにその場面でいかに行動すべきかを一番考えるはずだからである。
 いじめっ子といじめられっ子にはそれぞれに立場があって、それを分かっている。自分たちが、普通の循環する自然の摂理の中にいようとも、三すくみの中の一点にいるとしても、結局は、
「どこにいようとも、一つの図形の頂点だ」
 ということなのだ。
 普通の自然の摂理であっても、三すくみであっても、同じものではないかと思う。なぜなら、三すくみは、それぞれがけん制しあっているだけで、実際には、動こうとする意志があるからだ、
 金縛りに遭って動けないとしても、結果的に、
「自分だけが生き残ればいいんだ」
 という結論は決まっている。
 そのためにはどうすればいいのかということが大切なのだが、答えは決まっていて、あとはその手段を考えるということは、何も決まっていないことよりもマシだといえるのではないだろうか?
 いや、逆に、三すくみの状態だから、答えが決まっているだけで、その答えを達成するためには、どうすればいいのかという過程を見つけ出すことが一番困難な状態を意味しているのかも知れない。
 この三すくみという状態は、
「最初に動いたものは、生き残ることができない」
 ということである。
 自分が動くとすれば、自分が得意な相手に襲い掛かるはずだ。だが、そうなると、自分に優位性を持っている相手は、自分が襲い掛かった相手を苦手としているので、目の上の尾タンコブが消えた天敵は、一気に自分に襲い掛かってくるはずである。
 普通に考えれば、生き残るのは、自分の天敵であり、
「最初に動けば、最終的に生き残るのは、自分の天敵である」
 ということになり、結果として、
「自分は生き残れない」
 ということになるのだ。
 三すくみで自分は生き残ろうとするのであれば、絶対に自分から仕掛けてはいけないのだ。 これは、戦争などにおいてもよく言われることで、
「膠着状態になった時は、先に動いた方が負けだ」
 と言われることもある。
作品名:クラゲの骨 作家名:森本晃次