クラゲの骨
その後、大東亜戦争への、無謀な戦争へ突き進むことになった一番の責任は、マスゴミが煽ったことで、政府や軍が後に引けなくなったことが一番の原因である。
しかし、マスゴミというのは、権力には弱いものだ。
「ペンは剣よりも強し」
などという言葉が嘘っぱちであるということを序実に表している。
情報統制によって、国民の目を欺いて、何がマスコミだというのか。
それは戦時中だったことで、仕方のない部分もあるだろうが、戦後において、占領軍が撤退した後の独立国家になってからというもの。
「大東亜戦争」
「シナ事変」
という言葉を使ってもいいということになっているにも関わらず、使おうとはしない。
大東亜というのは、戦争のスローガンであり、大義名分だったはずだ。それを封印するというのは、マスゴミが扇動して、反日感情を、自らが日本人に植え付けているようなものではないか。
さらにシナ事変というのが、本来の言葉で、日中戦争という言葉は正確には間違いである。
なぜなら、戦争という定義は、
「お互いの国が相手の国との戦闘状態を、全世界に公表し、まわりの国の体制を決めたうえでの戦闘状態」
のはずである。
つまり、
「宣戦布告」
が必要なのだ。
しかし、この戦争は、
「宣戦布告することで、第三国が中立か、どちらかの味方に付くかという選択を迫られると、アメリカから武器、弾薬を提供してもらっている中国とすれば、アメリカに中立を宣言されると、何も供給を受けることができなくなり、戦争継続が難しくなる。日本としても、アメリカが中国につくことをあからさまに表明されるのを怖がったということもあり、どちらも、国益から、宣戦布告をしなかった」
ということである。
宣戦布告のない戦闘状態は、戦争とは呼ばず、事件、事変ということになるのだ。そういう意味で、これも、途中まではシナ事変であり、日本が英米蘭に宣戦布告した時点で、中国がアメリカの側につけば、何ら問題がないということで、中国が日本に宣戦布告、ここから、終戦までを日中戦争と呼ぶのだ。
それが歴史の事実なのに、なぜ、教育ではハッキリとしたことを教えず、いまだに、
「太平洋戦争」
だの、
「日中戦争」
だの言っているのか、まったく理解に苦しむ。その扇動をしているのが、マスコミなのであるのだ。
自然の摂理と三すくみ
克彦が生まれたのは、平成にもなっていない昭和の時期だった。その頃は、バブルの時期で、
「二十四時間戦えますか?」
などというキャッチフレーズがあったくらい、
「事業展開を広めれば、広めただけ儲かる」
ということで、
「金を持っている人間が勝者になれる」
という時代だった。
確かにそのメカニズムは今昔に渡って揺るぎないのではあるが、今の時代では、持っているだけではダメで、いかに有効に使うかということが大切だった。
バブルの時代は、金さえあれば、事業を拡大するのが一番の方法で、基本的にはそれだけだったといってもいい。
支店をどんどん作って、営業範囲を広げる。あるいは、他業種に参入するなど、事業の拡大は様々だった。
そんな時代に、克彦は生まれてきたのだ。
しかし、克彦が小学生くらいの頃、世の中が一気に変わっていった。
「節約しなさい」
などと、ほとんど言われたこともなかったのに、
「無駄な電機は消しなさい」
などと言って、節約をとにかく言われたのだ。
質素が必要な時代となり、何もかもが、ケチっぽい時代になってきた。
バブルの時代が好きだったわけではないが、ここまで節約をしつこく言われたり、「世間で、リストラなどという言葉がはやり、
「うちのお父さんも、危ないかも?」
などと言われて、社会は大混乱になっていた。
ただ、今まで見たことのなかった父親の顔を、寝る前にでも見れるようになったのは、嬉しいとまではいかないが、何かほっとした気持ちになっていたのだ。
「もう、残業もする必要なくなったしな」
と言って、夕飯を食べている。
「お母さんも、パートに出ようかしら?」
などという会話も聞こえてくる。
克彦の父親は、どちらかというと、軟弱なところがあった。それを克彦は嫌で嫌で仕方がなかったので、反対に、
「俺が男らしくならないとな」
と思うようになった。
おばあちゃんが以前に言っていたのは、
「お父さんも今は少しは男らしくなってきたけど、子供の頃、あんたくらいの小学生の頃は、軟弱だったんだよ。男の子同士で遊ぶよりも、女の子と遊ぶ方が好きだったような子だったんだけどね。でも今は男らしくなってくれて、ホッとしているよ」
と言っていたのを思い出した。
今の父親からは想像もできないことだ。仕事の部下を家に連れてきては、よく飲み明かしたりする豪快な父親しか見たことがなかったからだったが、仕事が忙しくなって一日に遭う時間がないなど当たり前だったこの間までは、父親を尊敬していた。
しかし、バブルが弾けてから、定時に家に帰ってくるようになると、昔の軟弱な面が顔を出すようになった。
「せっかく、早く帰ってくるようになったのに」
と思っているが、実際には、昔の父親に戻ってしまったという感じで、その感覚で記憶にあるのが、克彦が、まだ十歳にもなっていなかった頃のことだっただろう。
夜更かしなどする時代ではなかったので、十歳未満というと、もう夜九時には、目がトロンとして、ほとんど意識がないくらいになっている。
克彦の父親は、実に厳格な人間で、その強さは、いかにも昭和の、
「男尊女卑」
を著していて、まさしく、
「亭主関白」
を表していた。
当時ちょうど、歌謡曲で、
「関白宣言」
というのが流行っていたこともあり、旦那の威厳が強かった頃であろう。
今でこそ、男女平等などという言葉が叫ばれているが、昭和の頃には、そんな感じはなかった。
今の時代であれば、亭主関白などということをしていると、
「家庭内暴力、いわゆる、ドメスティックバイオレンス」
というものになりはしないかと、自治体が調査に乗り出しかねないようなことである。
確かに、昔の亭主関白というのは、行き過ぎの面もあるだろうが、逆に、ドメスティックバイオレンスを疑われるような時代というのも、実に情けないものではないだろうか。
そもそも、男女同権などと言っても、身体の作りが違っているのだから、少々はしょうがないと思われることであっても、すべてをひっくるめて、ドメスティックバイオレンスというのはいかがなものだろうか。
ただ、どこかからか、亭主関白な状態が家庭内暴力のようなひどいことになってきたというのも事実であり、そんな状態をどうすればいいのか、平成に変わったこともあり、さらに、バブルが弾けて、世の中が次第に変わっていったこともあってか、女性が少しずつ強くなっていったのだった。
特に、男女雇用均等法などというのが施行されるようになってからというもの、名称にまでこだわったりと、留まるところを知らない。
特に職業であるが、
「看護婦を看護師」
「スチュア―デスをキャビンアテンダント」
「婦警さんを、女性警察官」