クラゲの骨
「絶世の美男美女をどこかからさらってきて、そして、その二人が、頭の足りない二人であるというのがミソなのだ。頭が弱いことで、その生まれてくる復讐鬼に、自分が悪いことをしているという罪悪感を与えないこと、そして、氷のように冷たい美しさを、この小説家が望んだこと、それが、この話のもっとも、恐ろしいと思って見たところであった」
という話であった。
この話を中学時代に図書館で読んだことから、克彦は、自分が育った村のことを思い出し、自分の祖先が、この村のお唯であったという可能性はどこまであるというのだろうか?
そもそも、お唯には女の子しか生まれずに、その子も、皆女の子だったというではないか。
そのことを考えると、自分の出生の秘密について、本当のことを知らない自分がかわいそうに思えてきたのだった。
子供の頃は、
「自分の出生の秘密なんて、どうでもいいや」
と思っていた。
ただ、大人になってくるにつれて、生まれや、家の格式で、あからさまに人生や運命が決まってしまうというのが、恐ろしいところであった。
だからというわけではないが、当時の日本は、同和問題というのが、叫ばれていて、それまで存在していた部落などというものが次第になくなってはいたが、風習や世俗的なところで潜んでいるという、
「歪んだ時代」
だったといってもいいだろう。
時代とすれば、昭和の高度成長時代を通り越して、経済大国と言われるようになった頃であろうか。
克彦の父親が、ちょうど大学時代の頃だった。
藤森克彦。彼の父親は、当時、この二つの村のことを気にかけていて、卒論のテーマにしようとしていたのだ。
父親は、子供の頃から、まわりはいつも男の子だった。
女の子が一切寄ってこないのは、なぜなのかまったく分からなかったが、高校生くらいになって、その理由が分かったような気がした。
「神経質すぎるんだ」
というのが答えだったのだが、ただの神経質というわけではなく、潔癖症が、病的だったのだ。
ただ、ちょうど彼が大学時代だっただろうか。ちょっとした伝染病が流行ったことがあった。
あまりにも限定的で、範囲も、F県と、S県の一部だけだったこともあって、全国のニュースにもならなかったくらいだった。
だが、そういう災害関係にはデマは風潮がつきもので、
「この伝染病では、罹ってしまうと、五人に一人は死んでしまう」
であったり、
「特効薬も予防薬もないので、家を出ないこと、人に触ったりしないことが大切だ」
と言われたしていた。
それを、藤森氏は、真剣に信じた。
「どこに行くにもマスクをしている」
「人が触ったものには絶対に触らない」
「絶えず携帯用のアルコール消毒液を携帯している」
などの徹底ぶりだった。
令和になってから、全世界的に流行した伝染病の時には、まさにそれくらいのことが当たり前であったが、当時は陰でひどいことを言われていたのだ。
確かに、あのデマが本当であれば、そこまでの行動はないのだろうが、そこまで誰もデマを信じなかったのは、マスゴミの影響が大きかったからであろう。
マスゴミというのは、とにかく大げさに書くものだ。
自分たちが良くも悪くも、拡声器であるということをどこまで意識しているのか、実際にその覚悟を聞いてみたいものだ。
一番の大きな罪としては、大東亜戦争への引き金になったことではないだろうか。
大東亜戦争は確かに避けられないものだったのかも知れない。
第一次世界大戦で敗れたドイツに、寄ってたかっての一方的な責め、さらに、新しい体制としても、社会主義国の台頭。さらに輪をかけての、経済の世界大恐慌。さらに、ファシズムの台頭と、時代は、戦争へと突っ走っていったのだ。
日独伊軍事同盟を、
「勝ち馬に乗る」
という考えや、経済で疲弊している国が、ブロック経済で、自分たち大国だけが、生き残ろうとする、いかにも露骨な大国のやり方に対して立ち上がった、いわゆる、
「持たざる国」
の同盟だったのだが、もう一つ大きな共通点があった。
それが、
「民族の統一」
という発想ではなかったか。
ドイツはホロコーストに見られる、ゲルマン民族を中心としたドイツ人による世界征服。それにはユダヤが邪魔だったのだろう。同盟を結んだ日本に対しても、ヒトラーは人種の違いであまり好意を持っていたわけではないともいうではないか。
イタリアは、ファシズムにおける国家統一として、
「かつてのローマ帝国の振興を取り戻す」
というもの。
そして日本は、東アジアから、欧米を駆逐して、そこに、日満漢朝蒙による五属共栄、さらには、王道楽土をスローガンとして作り上げた満州国との協和による、
「大東亜共栄圏による、共存共栄」
を目指していたのである。
これが戦争を行う大義であったのに、占領軍によって、使えなくなった言葉を、今でも律儀に使用してはいけないかのような風潮から、太平洋戦争などという詭弁に満ちた戦争名称を聞くと、虫唾が走る思いである。
そんな戦争の嵐が吹き荒れようとしていた時代、日本は中国に進出した。
本来は、満州を死守し、ソ連の南下政策に歯止めをかけるためには、本来であれば、中国とは戦線を一にすることで、共通の敵に対峙するということもできたはず。
そもそもの、満州事変のきっかけとなった。満蒙問題というのは、ソ連との確執から生まれたものだったはずだ。
しかし、朝鮮を併合し、中国に侵攻してくることになると、中国民族の反日感情を植え付けることになり、さらに、当時の中国は、中央政府である国民党、満州地区にあった軍閥勢力である、北閥勢力。さらには、中国共産党と、三つに分かれて、内乱を繰り返していた、
日本軍は満州国との絡みから、北閥勢力に近く。欧米列強は、北京やその他の租借地の絡みで、国民党政府を、そしてソ連は当然のことながら、中国共産党を支援していた。
つまりは、中国内乱は、
「列強の勢力拡大の縮図」
でもあったのだ。
日本の特務機関と、北閥勢力の動きが活発になってくると、中国人民の抵抗は大きくなり、元々の反日運動と重なって、日本に対して目の敵にしてきたのは、いうまでもない。
満州を力づくで奪ったという意識が強いのだろう。中国人における日本への反感はハンパなものではなかった。
そんな時、盧溝橋事件が発生する。現地の和平交渉から、その時はそれ以上の戦線拡大はないかと思えたが、そこからの中国の反抗はすごいものだった。
郎坊事件、公安門事件などの中国軍による挑発事件であったり、さらには、中国の行った極悪非道の虐殺事件として有名な通州事件などが起こったことで、日本は中国に挑発される形で、シナ事変が勃発してしまった。
中国側は、南京事件を大きく虐殺事件として言っているが、それ以前、少し前の時点で、中国側が行った通州事件を出されると、何も言い訳はできないはずである。
そんな状態を見た日本国民は、中国への怒りをあらわにし、対中国戦線を、国民が煽ることになる。それに飛びついたのが、マスゴミだったのだ。