短編集97(過去作品)
女装
女装
長浦由美子にとって、原田敬介という男性はどういう存在だったのだろう。また、原田敬介にとって、長浦由美子という女性はどういう存在なのだろう。
高校時代まで、男性を意識することのなかった由美子の前に現れた最初の男性だった。
――男性というのは、無骨で無神経で品のない人種――
としてしか見ていなかった。
小学校の頃から大人しく、何をされても奇声を上げることはあっても、抵抗することのない由美子は、恰好の苛めのターゲットであった。
靴を隠されたり、スカート捲りなどといった悪戯は日常茶飯事で、ありもしない噂をながされたりしたこともあり、それによって友達をなくしたりしたこともあったくらいだ。
そんなことが五年生くらいまで続いただろうか。
由美子は背も高く、スリムというわけでもなかったので、身体の成長は他の人よりも早かったかも知れない。急にまわりが子供に見え始め、悪戯をされても、あまり気にならなくなった。精神的にも大人になりかかっていたのだろう。あまり奇声を上げることもなくなり、何かをされると、毅然とにらみを利かせるようになると、誰も悪戯を仕掛けてこなくなった。
――ありがたいことだわ――
自分のまわりから悪戯がなくなったことによって、今度は違う人にターゲットが移った。同じクラスの目立たない男の子であったが、由美子自身、そんな男の子がクラスにいたことすら意識していなかった。
もっとも、自分のことだけで精一杯だったので仕方のないことなのだが、いじめというのがどのような卑劣なものなのかを、改めて知ることになった。
自分が当事者として受けているのと、人が受けているのとを見るのではかなりの視点が違う。自分が受けている時は、半分他人事のような気持ちで、
――早く収まらないかな――
ということだけを考えていた。それ以上を考える余裕もなく、相手に対しての怒りなどはなかった。それはその時が収まっても同じことで、なるべくすぐに忘れようと思う。苛められっこだった頃の自分は、
――これが私の運命なんだ――
という開き直りの境地にいたことは間違いない。
だが、人が苛められているのを見るというのが、これほど憤りを感じるものだということを初めて知った。苛める方もこれほど卑劣で、下品で、嫌らしいものだということは、その表情を見ていれば分かる。大勢で寄ってたかって一人を苛めるというのは、考えただけでも卑劣なものだ。
今度は苛められている人に目を向けるが、本当の憤りを感じるのは、むしろ苛められている方の人間にである。
――あれが以前の自分だったのか――
と、見た瞬間愕然としてしまった。
しゃがみこんだまま背中を丸め、まわりを取り囲んでいる人たちを見上げているのだが、その目にはまったく精気が感じられず、ただ救いを求める目をしているのだ。
誰も助けてくれるはずはないと分かっているのか、目は諦めの目で、完全に死んでいる。許しを請う目をしていて、怯え以外の何者でもないのだ。
――自分は他人事だったと思っていたが、今苛められている人はどうなのだろう――
もし同じように他人事だと思っているならば、同じような顔を由美子自身もしていたことになる。
そんなのは嫌だった。いじめの本当の辛さは、自分の時間を無駄に使ってしまったことではないかと考えるようになっていた由美子にとって、苛められている人を見ること自体が嫌なのだ。
では苛められている人が他人事だと思っていなかったらどうなのだろう。
その表情はまさしく気持ちを表しているのであって、他人を見ているのみ、自分の心を見透かされているようで気持ち悪い。
いじめを受けている人も由美子の視線を感じるのか、由美子を見つめ返す。その表情には助けを求めるような哀願は見えない。むしろにやけているようにさえ見える。
――どうしてそんな顔をするの――
と言いたいが、その目で見つめられると、しばらくしないと視線を逸らすことすらできなくなってしまう。
苛められっこは皆自分と同じような考えでいると思っていた由美子は狼狽した。
――自分だけが特別なのかしら――
その頃から、自分に対して少なからずの不信感を抱くようになっていたが、それは仕方のないことなのだろうか?
原田敬介は、小さい頃に母親を亡くしていた。その時の父親の落胆はかなりのものだった。
元々物静かだった敬介は、さらに口数が少なくなり、部屋に閉じこもるようになっていった。
父親はよく酔って帰るようになったが、ただ呑むだけで帰ってきても暴れたり、敬介を起こすようなことはしない小心者であった。母親のいないことが寂しくないわけではないが、父親を見ていると、前から母親がいない生活をしてきたような錯覚を感じるから不思議だった。
友達の中には両親が離婚した人もいた。母親に引き取られたらしく、母親の実家にいると、かなり息苦しいらしい。喧嘩が強いこともあって、クラスでもボス格として君臨していたが、まわりにいう人も自分にないものを持っている彼に逆らうことができないようだ。
敬介はそんな友達とは違って、一人でいることの方が似合っている。一人でいるやつを黙って見過ごすほど人間ができていない小学生でも、さすがに同じような境遇の敬介には声を掛けるのを遠慮しているようだ。お互いに一目置いていたに違いない。
そんな敬介にも慕っている人がいた。近所に住んでいるお姉さんで、白いドレスに白い帽子のよく似合う人だった。
大きな屋敷に住んでいて、いつも学校に行く時は黒い外車で送り迎えされている。彼女が病気で療養していることを知ったのは、まだ一度も話をする前のことだった。
名前を桜さんと言った。大きな桜の木が部屋の前に植えられていて、いつも木を見つめている様子が思い浮かぶ。敬介と仲良くなるまでは表に出ることもめったになく、学校にも時々しか行けなかったようだ。
「桜さんは、何の病気なの?」
仲良くなって話しかけると冴えない表情になった。その時初めて、
――聞いてはいけないことだったんだ――
と自覚したが、それまで相手の気持ちを考えずに何でも聞いていた自分に気付き、恥ずかしくなった。
それまで口数が少なかったことを気にしたことはなかったが、その時は複雑な心境だった。
――口数が少なかったので、今まで人に迷惑を掛けずに済んだんだ――
という思いと、
――もう少し他の人と話をしていれば、桜さんに嫌な思いをさせることもなかったのに――
という後悔の念とである。
幸いにも桜さんの曇った顔を見たのはその時だけだった。だが逆にその時だけだっただけに、瞼に焼き付いて離れなかったとも言えなくもない。
――気品のある表情というのは、こういうのを言うのだろう――
一人っ子の敬介にとって、自分も子供のくせに、クラスの女の子は子供にしか見えなかった。教育実習生のお姉さんなら女性として見ることができた。その時の桜さんは中学生だったが、教育実習生のお姉さんよりも見方によっては大人に見えた。
――表情がふくよかだ――
作品名:短編集97(過去作品) 作家名:森本晃次