短編集97(過去作品)
死ぬほど退屈な昼間は、ずっと表を見ていた。子供の頃、病気がちだった美佐子は、よく発熱して学校を休んだものだが、その時も、布団の中から見える表の風景ばかり見ていた。見えるのは、隣の家の屋根と、その横に生えている一本の桜木だけだった。夏になっても枯れていた木だったが、不思議と誰も切り落とすことはしなかった。それよりも、寿命ではないかと思える木が何年も同じ形で残っていたことの方が、今から思えば不思議だった。
入院生活は、気分をリフレッシュさせてくれたが、気持ちの中に残っている、
――バチが当たった――
という感覚は何であろう。バチが当たるようなことをしたわけではない。逆に美佐子の人生は、自分の期待していない運命に操られ、不幸を背負った運命を歩んでいるのではないかと思えるほどである。
――神も仏もないものか――
と感じてこそ本当で、
――バチが当たった――
などと、どこからそんな発想が生まれるというのだ。
入院中の退屈を紛らわすために、美佐子は絵を描いていた。さすがに本格的な絵を描けるわけではないが、イラスト程度である。鉛筆だけのイラストもあれば、クレヨンを使って色を塗った絵もあるが、鉛筆だけのイラストの方が魅力的である。近くから見ていると分からないが適当な距離を置くことによって生まれる立体感は、モノクロならではのものだった。
美佐子の描くイラストは、今にも動き出しそうに思える躍動感が魅力的だった。それは、以前に付き合っていた彼の得意とする手法でもあった。
最初に彼の絵を見た時に、吸い込まれるような気持ちになったのは、絵の中に扉のようなものがあり、その中にさらに扉が……。
そこに立体感を感じた。奥行きが大きく感じられ、影になる部分がしっかりと描かれている。そんな絵を描きたくなったことだけが、彼と知り合えたことが幸せだったと言えるだろう。
父が死んだ時のことを思い出していた。
殴られても蹴られても抵抗しなかった母を見ながら、美佐子は苛立っていた。
――一体何に苛立っていたのだろう――
抵抗できない母に苛立ちを感じていただけだと思っていたが、そうでもない。殴る蹴るの暴行を母だけにしていた行為に苛立っていた。胸の鼓動の激しさが呼吸困難を呼び、震えが止まらなくなる。汗が背中に滲んで、血の逆流を感じる。自分の中の女としての部分が顔を出していたのかも知れない。
それを思い出したのが、母の情夫に犯された時だった。
――抵抗しなければいけない――
と思いながら、血の逆流が抵抗を許さない。抵抗することが逆に相手の気持ちを逆撫ですると感じたからだ。
相手が望む蹂躙を楽しむ感覚、これだけは与えてはいけない。せめてものオンナとしてのプライドだった。正直な身体の反応に委ねている間、
――母と私は違うんだ――
と感じていた。
発熱した時に見ていた枯れた木を見ている感覚だった。決して他人事などではない。それは自分が一番分かっている。他人事として片付けたくない気持ちがあるはずなのに、他人事で片付けてしまうもう一人の自分に苛立ちを感じていた。
彼の存在が次第に薄れていく。本当に美佐子にとって彼氏と言えるような人がいたのだろうか? 絵画を共通の趣味としてお互いを高めあえる人は確かにいた。だが、その人を彼と呼んでいた自分を不思議に思う。
母にとって、父とは同じような存在だったのではないだろうか。そして、その父は死んでしまった……。
彼はもう二度と美佐子の前に姿を現すことはない。枯れた木がずっと美佐子の瞼の裏に残っているように……。
――バチが当たった?
美佐子が、母の情夫に犯されていたその時に感じた視線、それが彼だったということだけは、誰にも言わないままにしておこう。
そうでなければ、バチはこの程度では済まないはずだから……。
( 完 )
作品名:短編集97(過去作品) 作家名:森本晃次