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短編集97(過去作品)

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 男は何も言わずに帰っていく。母の顔を結局直視しないまま帰っていったのだ。
 男が帰ったあと、母の目から一筋の涙が溢れていた。硬くなった表情を変えることなく、流れている涙である。表情はまるで苦虫を噛み潰したような何ともいえない表情で、それは父が死ぬ前に見せたあの表情だった。
 美佐子は恐ろしくなった。
――母がこんな表情をする時というのは、ロクなことがなさそうだ――
 と感じたからだ。
 座り込んだまま動くことのできない美佐子の前に、母はしゃがみこんで話しかける。
「我慢しなさい……」
 何ということをいうのだろう?
――我慢? 一体何を?
 信じられなかった。自分の男に娘が暴行されたのである。大事なはずの娘が……。
 美佐子の頭は混乱した。
――母親は、私が大切ではないのだろうか? 男が裏切ったことが悔しくないのだろうか?
 そこまで混乱した頭で考えられるのは、他人事と思っていた頭がさらに感覚までも麻痺させてしまったからだろう。
――現実逃避とは、このことなんだ――
 まさに、美佐子は現実逃避を身に沁みて感じていた。
 それにしても苦虫を噛み潰したような表情をする時の母は恐ろしい。
――たった一言で、これほどの失楽感を味わうのか――
 と思うほどで、失楽感が強ければ強いほど、感覚が麻痺してしまう。
 身体の奥から、あの男の忌まわしさが流れ出ている。それを感じた時、美佐子は一気に立ち上がってシャワーを浴びた。母が真っ暗な部屋からシルエットになってシャワーを浴びている美佐子の姿を見つめているのを感じたが、必死になって身体を清めてシャワーから出てきた美佐子を見つめる視線は先ほどと違って、なぜか優しさに満ちていた。
――これが本当の母の顔のはずじゃないのか――
 美佐子はそう信じたかった。さっきまでの気丈さは抜けていなかったが、母親が娘を見る「本当の目」を初めて知ったような気がした。
 あの忌まわしい日々から一週間が経ち、
――一体、どれが本当の母の顔なんだろう――
 美佐子は考えていた。
 それから美佐子は彼とは別れた。
 それからの母は、美佐子を見ようとしない。目が合うこともあったが、その時に見せる表情の何と冷たい目。あれは娘を見る目ではない。自分の男を奪われた嫉妬の目だ。
 美佐子には分からない。どうしてそんな目を娘に向けることができるのか……。
 美佐子と目が合った瞬間、慌てて目を逸らすようになったのは、母の方だった。凍りつくような冷たい目をしているのに、どうしてすぐに目を逸らすのだろう。あの目の逸らし方は、明らかに気まずさからである。母が怯えるような目をしているのなら気まずいと考えても不思議はないが、冷たい目には相手を脅かすだけの脅威がある。何も臆することなどないはずだ。
 それからの美佐子は変わってしまった。人の視線が気にならなくなり、気がつくと誰かを凝視している。元々、人の視線を気にする方ではなかったが、人との物理的な距離が気になる方であった。
 絵が好きな美佐子は、無意識に人や物との距離を測り、遠近感に照らし合わせてみたりしていた。
 極端に視力が落ちたのもその頃だった。少しでも暗いところに入ると、まったく見えなくなってしまう。
 光の恩恵によって色や形が分かるのだ。視力が落ちれば、暗くなればなるほど視力が悪くなるのは当たり前である。特に逆光になっていれば、相手が誰であるかまったく分からない。
 メガネを掛けるようになった。女性がメガネを掛けるというのは抵抗があるものらしいが、美佐子にはなかった。却って、違う人に生まれ変われそうな気がするくらいで、見たくないものがある時はメガネを外せばいいのだ。実に簡単なことではないか。
 美佐子が交通事故に遭ったのは、高校を卒業して就職した会社への通勤途中だった。バイクの免許でも取ればよかったのだろうが、バイクというものに興味もなければ乗ってみたいとも思わない。
 学校からの集団入社の道もあったのだが、自分を知っている人たちと、仕事でも一緒にいたくない。
「社会人になっても、また一緒ね。お互いにがんばりましょう」
 と声を掛けているのを聞くが、美佐子には理解できなかった。
 学校とはまったく違う世界で、しかも厳しい世界。学生時代の甘えを捨てなければいけない立場なのに、また同じ仲間と顔を合わせれば甘えが出てこないとも限らない。そんなことが分からないのだろうか。
 甘えが出ないと思っているとすれば、その方が恐ろしい。身の程知らずとはこのことではないだろうか。美佐子ほど神経質になる必要もないだろうが、逆に美佐子は自分が神経質だとは思っていない。
 アウトロー的なところがあり、人と同じことをしていても面白くないと感じている美佐子は、無意識に面白いことを探している。辛い目にばかり遭っていて、この世に面白いことなど何もないと思っているはずなのに、求めているのは面白いことなのだ。
 自分にとって、面白いということが見つからなければ、その時は自殺してもいいとさえ考えていた。それだけ落ちるところまで落ちたと思っていたのだ。
――私ほど不幸な人間はこの世にいないんだ――
 と思っていたのも数週間だけだった。そのうち今まで人のことをどうでもいいと思っていた感情に、人の同情が入り込んでくる。甘えではないのだが、人肌のぬくもりを思い出したくなる時期でもあった。
――肌のぬくもりを与えてくれる人なら誰でもいい――
 ただのぬくもりだけならこちらから探すことはない。男を求めているのが分かるのだろうか。男が寄ってくる。だが寄ってくる男はロクでもない男たちばかりで、心の隙間を埋めてくれる人たちではなかった。もっとも心の隙間などの存在すら感じていなかった美佐子なので、寄ってくる男を選ぶことなどしない。
――来るものは拒まず――
 であった。
 くだらない会話を聞いていると、次第にあの男を思い出すようになってきた。頭が正常になりかかっている証拠だったのか、自分にあったはずのプライドを思い出そうとしていたようだ。
 交通事故に遭ったのはそんな時だった。ある意味、タイミングとしてはよかったのかも知れない。狂ってしまった生活を元に戻したいと思う気持ちにさせてくれるには、ちょうどいい刺激になった。
「これくらいのケガで済んでよかったよ」
 という医者の言葉ではないが、不幸中の幸いと言われるだけのことはあった。
 意識はハッキリしている。別に病気で入院しているわけではないので、却って身体がなまってしまうほどだ。
 今まで変えることのできなかった悪夢のような人生、変えることができないのも当然で、何しろ他人事だという思いを引きずったままいたからである。入院生活はさらに過去の忌まわしさを他人事のように思わせるが、夢だけはごまかせない。
 あまり緊張しなくてもいい入院生活で、夢だけが他人事を自分の世界として意識させる。
作品名:短編集97(過去作品) 作家名:森本晃次