短編集97(過去作品)
彼は紳士で落ち着いて見える。他の人が見れば、父親とは似ても似つかぬように見えるだろうが、美佐子がどうして彼に父親を感じたのか、今でもハッキリ覚えている。
図書館の中で見た彼は、やはり紳士だった。表に出るまでは紳士そのものだったにも関わらず、どこか野生的な面を見たのだ。
――紳士的な男性に憧れているのかしら――
それも間違いではないだろう。自分のまわりに紳士的な人がいなかったことを考えていたが、図書館の表に出て、彼の横を歩いていると、以前父親に感じた匂いが思い出されたのだ。どんな匂いかと聞かれると一言では言い表せないが、酸っぱさの中に辛さが混じったような香りだった。
彼はとにかく優しかった。その優しさが、時には嫉妬になることすらあったくらいだ。彼が他の女性と話をしているのを見ると気になってしまう。
――私に嫉妬などということがあるんだ――
と、今さらながら考えたものだが、自分がオンナである証拠であった。
だが、そのうちにそんな感覚すら麻痺してしまうことになる。
その日の美佐子は、彼とのデートの帰りで、時間が中途半端になった。
表はまだ明るく、完全に日が落ちているわけではなかったが、風のない時間帯で、少し気だるさを感じていた。
すでに美佐子は処女ではなかった。彼に抱かれた時の感触がまだ身体に残っているくらいそれまでの毎日とは違った時間の中を過ごしている感覚だった。
あっという間に過ぎる一週間だったが、ちょうど一週間前のことを思い出すと、はるか前だったように感じる。線は短い一本で、点で見ると、大きなものである。一人を見つめている時間を過ごすというのが、これほど時間の感覚を麻痺させ、それでいて通り過ぎた後に必ず何かを残しているように思えるものだとは想像もしていなかった。
――身体の中を走ったのは一体何だったのだろう――
美佐子は考える。熱い身体にこれ以上ないというほど早く打ち続けた脈は、激しい血の逆流を呼び起こしている。今まで知らなかった世界を垣間見た瞬間は、まるで未知との遭遇だった。まっすぐに続く道、その横は丘のようになっていて、道の果てから日が昇ってくる。そんな光景が貫かれた身体が感じていたのだ。
彼を独占できるという感覚はない。彼のためなら何でもできそうな気がしていたが、臆病で、あまり変化を求めない美佐子は、自分の中にもう一人の自分を見つけた。
美佐子は自分でも知らないうちに有頂天になっていたに違いない。
――隠そうとすればするほどボロが出るものだ――
以前から思っていたはずだった。だから気持ちを隠そうとしていたわけではない。滲み出る気持ちを抑えることは、もはや美佐子にはできなかった。変化を求めない美佐子の性格があだになったのだ。
家に帰り玄関を開けると、真っ暗なはずだった。
真っ暗な部屋に帰ってくるのは慣れている。真っ暗で冷たい空気の中に、線香の香りがしてくるのを感じた。線香の香りは居間にある仏壇からしてくるもので、父親が、
「おかえり」
と言ってくれているようだった。
もちろん、この話は誰にもしたことはない。特に母にはタブーだった。父の暴力に耐えていた母に対して、今でも父はトラウマとなっていて、ひょっとすると、父親の存在を美佐子よりもさらに感じているのかも知れない。
――まだ、家にはお父さんがいるんだ――
美佐子は感じている。美佐子はまだ父が死んだことが信じられない。母もそうだろう。だが、一番忘れたいのは母のはずだが、毎日のように線香の香りがしているということは、母が出かける前には必ず仏壇に手を合わせているに違いない。
「お父さん……」
思わず声が出てしまった。
誰もいない部屋の湿気を帯びた部屋。風がないのが不気味だった。
誰もいないと思っていた部屋の奥で、ふと人の気配を感じた。この時に感じた血液の逆流は、すべてを彼に委ねた時とは違い、凍り付いてしまいそうな感覚だった。
真っ暗な中で感じたものは、グレーに見えた。まるで熊でもいるかのように、慣れてきた暗闇に大きな影を映し出している。
「美佐子か?」
優しそうな声が響いたが、父親の声とも、彼の声とも違っていた。小刻みな震えが空気を動かし、息遣いが湿気をさらに深めている。
美佐子はその場に立ち竦んでしまった。真っ暗な部屋に男と女、
――これから起こることを想像してはいけない――
と思えば思うほど、蹂躙されていく自分が瞼に浮かんで離れない。
表から見てカーテンに映っている二体の獣が絡み合うようなシルエットが思い浮かんでいた。
こんな時こそ、
――自分がバカであればいいのに――
と、自分に襲い掛かった男を必死で払いのけようと努力しながら考えていた。頭の中が完全に他人事になった時、美佐子に抵抗する力は残っていない。
すべてが暗闇の中で行われ、息遣いと衣擦れだけが湿気を帯びた空気の中で聞こえていたことだろう。
美佐子にはどこまで行っても他人事だった。
――涙も出やしないわ――
諦めというより、麻痺した感覚の中で走馬灯のように思い出された父に会いたいという重いガ強かったのだ。
その時に、誰かの熱い視線を感じた。しかも知っている視線、好奇に満ちた視線を感じたが、視線の主は、美佐子が気付いていることなど知らないに違いない。この時が一番美佐子の運命を狂わせることになったのに気付くのは、いつになるのだろう……。
――死にたいということだったのかしら――
意志に関係なく流れ出る涙を拭うこともなく、じっと考えていた。ただ父のことだけを考えていたのだ。
しばらくして帰ってきた母が、その現場を発見した。相手の男は、母と最近よく一緒にいる男だった。美佐子は母と結婚して義父になるのではないかと、それこそ他人事のように考えていた相手である。
母は呆然としていた。一瞬何が起こったか、判断できないでいたようだ。
母を見つめていると涙がまたしても溢れてきそうで、たまらなくなる気持ちを抑えなければならなかった。
――そんな顔を母に見せたくない――
それは心配させたくないという気持ちだけではなく、女としてのプライドがあったのだ。
本当に苦しい時、辛い時、相手に同情されるのを嫌う気持ちがその時に初めて分かった。ケガをして呼吸困難になったり、身体が痙攣を起こしたりした時に、誰にも触れられたくない気持ちに似ているのかも知れない。
母から目を背けていると、今まで見たことのない母の姿を垣間見ることになった。
それまで母や美佐子を舐めるように見下げていた男の頬を一発殴った。
「何しやがるんでい」
男はドスの効いた低い声で答えたが、母の顔を凝視した瞬間、すごすごと服を着ると、あっという間に部屋から出て行った。それが本当にあっという間の出来事だったのかどうか、あとになって感じたことなので分からない。
男が服を着ている姿を黙って母は見ていた。他人事だと思って呆然としていた美佐子には、静寂の中に聞こえる服を着る時の衣擦れの音が嫌で嫌でたまらなかった。自分もその時に一緒に上着を羽織ることだけは何とかできたのである。それは、また衣擦れの音を聞きたくないという一心だったに違いない。
作品名:短編集97(過去作品) 作家名:森本晃次