短編集97(過去作品)
美佐子と彼が付き合い始めたのは、ある意味で平和だったのかも知れない。美佐子のようにどのグループにも属していない女性であれば、妬まれることはあっても、女の友情に傷がつくことはないだろう。女の友情というものが本当に存在するかどうか見てみたかった気もするが、きっと醜いものだったに違いない。
だが、最初は美佐子が望んだ付き合いではなかった。ひょっとして彼も同じだったかも知れない。
――どうしても彼氏がほしい――
などということはなかったし、もし彼と偶然出会ったのが図書館でなければ、付き合い始めることもなかったに違いない。
図書館という場所、実に神秘的な場所である。
――本に囲まれる生活ってどんな感じなんだろう――
と考えたことがあった。それは図書館や本屋の雰囲気に神秘性を感じていたからだ。
部屋に入った瞬間に感じる本の匂い。静かな中に聞こえてくるのは、本を捲る音だけだった。そんな雰囲気が美佐子はこの上なく好きである。
特に絵を描くことを好きになってから、芸術というものに造詣が深まったと感じるようになってから余計に好きになった。表の喧騒とした雰囲気から隔絶され、芸術を志す者も、それ以外の者も同じ空間で平等である。それこそが、空間に感じるゆとりや時間に感じる贅沢さではないだろうか。
今まで家で、父と母の泥沼と言ってもいいような生活を見てきた。もう見ることはないだろうが、中学に入ってからの美佐子は、徐々に心に余裕を持つように心掛けていた。それが、時間に与えられた贅沢さであることに気付いたのは、高校に入学してからだった。
受験を控えていても、絵を描くことを止めなかった。止めてしまうと、自分ではなくなってしまうからだ。贅沢な時間が存在するからこそ、
――時間を無駄に使いたくない――
という感情が働くのであって、成長期にそんな感情を持つことができる自分が誇らしかった。
――そんな気持ちがあったから、彼と出会えたんだ――
と美佐子は感じる。
家では相変わらず感情を表に出さない。出すだけ無駄だと分かっているし、まず第一に感情を表す相手がいない。感情を表に出すことに麻痺してしまっているのだ。
家に帰る時間が遅くなってくる。
家に誰もいない時間が増えてきていた。父が亡くなってからというもの、母が一人で働いている。美佐子を育てるためにかなりの無理をしているのだろうと、母に申し訳ないと思う反面、
――一体、どういう仕事をしているんだろう――
と思えるほど、母の変わりようは日に日に増していく。
肌艶は見る見る荒れてきて、気性も少しずつ荒れてきているようだ。あまり話をすることもないので何を考えているのか分からないが、少なくとも女性としての恥じらいが薄れてきているのは間違いない。女として成長期にある美佐子にはそれがよく分かる。それを教えてくれたのは彼だったからだ。
――最初は好きな人と――
乙女チックな気持ちが実現したことは美佐子にとって幸せ以外の何者でもないが、
――こんなものだったの――
という気持ちがあったのも捨てきれない。達成感が憔悴に変わっていくのを美佐子は感じていたが、それが大人のオンナへの入り口であることを美佐子には十分に分かっていた。
頭が考えるのではない。身体が感じるのだ。
だが、美佐子は最近まで知らなかったが、父親が死んでからの母親は、何かが弾けたように変わってしまっていた。
最初こそ、家に誰もいない時間が増えてきていたが、美佐子の帰りが遅いことをいいことに、母親が男を連れ込んでいたのだ。帰りが遅くなってしまったのは彼氏ができてからだったが、そのことを母が知っていたかどうかは分からない。だが、母が最近付き合い始めた男は知っていたようだ。
母親はそれほど悪知恵の働く女性ではない。もっとも、頭の回転が速い方でもなく、どちらかというと鈍い方であった。父が苛立ちを覚えていたのも分からなくもないほど、頭の回転には疑問を感じていた。
もちろん、父の生前にそんなことが分かるはずもなかった。最初は、父がいなくなっていろいろな意味で感覚が麻痺しているだけではないかと感じていたが、一年経っても二年経っても麻痺した感覚が戻ってくるわけではなかった。
――これじゃあ、父がイライラするのも分からなくもないな――
と感じた。
しかし、頭の回転が鈍い分、母には甘え上手なところがあった。男を引き寄せる何かを持っているのだろう。それが長所なのか短所なのか分からない。それまでのところ、美佐子には害がなかったからである。
美佐子が母親の性格を思い知らされたのは、美佐子が高校三年生になってからのことだった。
母親は、どうやらその性格のせいか、自分についてくる男性を短い間に何人も変えているようだった。相手が愛想を着かすのか、それとも、母親が男性に飽きてしまうのか、それとも……?
その時の男性は、父親が死んでから、何人目の男性だったのだろう。いや、そんなことはどうでもよかった。それまでの男性は、大人しい人が多かったようだが、母親の性格からすると、大人しい母親を何とか引っ張っていこうと背伸びしている人が多かったに違いない。長続きしないのは、そんな男性に頼りなさを見出した母親が愛想をつかしたというのが大方の理由に違いない。
だが、美佐子に影響を与えた男は、今までの男とは違っていたようだ。母親が、今までと違い美佐子にその男を紹介しようとまで考えていたからだ。
それまでは、母親は美佐子と男が鉢合わせたとしても、それはそれでも構わないと思っていた。それまでの男を母は家に連れ込んだことはない。ほとんどが表で会っていた。
美佐子に合わせるような男性たちではないと思っていたのだろう。それだけ頼りなく感じていて、ただ寂しさを紛らわすためだけの男たちだったようだ。
そんな男たちなので、美佐子に知られることはなかった。母親の態度が男がいる時でも変わることは分かったのは、それだけ大した男たちではなかった証拠である。
美佐子にとって男というのは、彼一人だけであった。しかも頼りになる人でなければ異性としての感情など湧いてこない。
――亡くなった父親の面影を持った男性であれば、感じるに違いない――
と思っていたが、彼はそんな男性だった。
美佐子と母親の間にできた溝は大きなものだった。
家に寄り付かなくなった美佐子は、母親と顔を合わせると気まずい気持ちになるというのが本音で、それだけだった。
母親には下手な計算はなかったが、美佐子が敬遠しているのは分かっていたようで、余計に寂しさを感じたのだろう、男をとっかえひっかえしたのもその影響があり、しかも雰囲気的に男が放っておかない女性ともなれば、表に男性がいても不思議ではない。
それを感じたのもしばらく経ってからで、彼ができてからのことだった。
彼は美佐子にとって最初の男性であったが、異性を感じ始めるのが、遅かった。高校に入るまでは、男性というと、まったく違う人種のように思えて、父親の面影を持っている男性でなければ、行けつけることもなかっただろう。
作品名:短編集97(過去作品) 作家名:森本晃次