短編集97(過去作品)
その日から、敬介の中で何かが変わり始めていた。
大学に進学した敬介が最初に感じたのは、
――大学っていろいろな人がいるんだ――
という思いだった。
それまで自分の中で想像もしていなかった人たち、想像するだけで、実際に存在するなど信じられなかった人たち、自分の中で否定し続けていた人たち、そんな人たちがそこにはいた。
言動が高校時代までとは違うのだ。高校時代から知っている人でも、大学の門を潜っただけで、雰囲気が違って見える。それまでの受験で暗かった雰囲気が一気に開放され、今まで競争相手だったまわりの人と急に接しやすくなったことも開放感に繋がっているに違いない。
一日があっという間に過ぎているように感じるわりには、キャンパス内にいると時間の流れを感じない。由美子のことがすっかり頭から離れている瞬間もあるくらいで、毎日が新しい発見で充実していた。
由美子はというと、会社に入ってからというもの、毎日に追われていた。
仕事も覚えなければならない。それがまず先決で、先輩たちが一番望んでいることだろうが、それよりも人間関係がしっかりしていないと、自分が辛いことを知っている由美子だけに、精神的にきついものがあった。
なかなか頭の中を整理することができない由美子は、一つのことに集中すると、まわりが見えなくなる。人間関係が先か、仕事を覚えるのが先か、毎日が苦悩の連続だった。
由美子が就職した会社は、こじんまりとした小さな会社である。社員が十数名の会社では、研修などという気の利いたものもなく、いきなり引継ぎから入る実践教育であった。
すべてを理屈から入らないと理解できないタイプの由美子にはきつい会社だった。
「皆、そうやって実践で覚えてきたのよ。特にうちは一人で何でもしないといけないところがあるので、ボンヤリしていると取り残されていっちゃうわよ」
先輩事務員の話であった。入社して三年目ということだが、キリッとした態度は、男性社員からの人望も厚いようだ。由美子の就職した会社は、完全に男性よりも女性の方が強く、女性が事務所を切り盛りしているから、営業もそこそこうまく回っているということである。
「私たちは縁の下の力持ちなのよ」
と言って笑っているが、その顔には自信が満ち溢れている。主役ではないだけに、そんな自分たちが会社を支えていると思えるのは快感なのだろう。表に出ることはないだけに、責任も感じることなく、伸び伸びと少し大胆なこともできるというのが強みである。
「早くあなたも、この快感を味わえるといいわね。忘れられなくなるわよ」
言葉を聞いているだけで、魔法にでも掛かったかのように、楽しみに感じてくるのは、きっと女性としての本能がそこに隠れているからに違いない。
しばらく敬介と会えない日々が続いていたが、そんな時は気分転換に、街でショッピングしていた。
「長浦さん」
ふいに後ろから声を掛けられ、ビックリして振り向くと、そこには馴染みの顔があり、ホッと胸を撫で下ろした。
「島田君」
彼は島田勇、由美子だけではなく敬介も見知った顔で、高校時代の同級生であった。
島田とはあまり面識もなかったわりに、振り向いた瞬間、誰だか分かったのも不思議だった。
――そういえば、後ろから時々見られていたような気がしていたんだっけ――
島田に対してはあまりいいイメージが残っていないのは、性格が暗かったせいもある。いつも視線があらぬところを向いていたように思っていたのに、気がつけば見つめられていた記憶がある。
――ストーカーかしら――
と思ったことすらある。
それも一瞬、気になるほどのことではなかったが、視線を逸らす素早さが、今から思えば気持ち悪かった。
「久しぶりですね。お茶でも行きませんか?」
驚愕で見開いている目を自分でも感じることができる。それを見ていながらニコニコ微笑む表情を変えようとしない島田は、高校時代の島田とはまるで別人だった。
「ええ、いいですよ」
今までの由美子からは信じられない言葉が口から出てきた。自信があったのだろう。勝ち誇ったような表情をする島田が憎らしくもあったが、どこからその自信が湧いてくるのか知りたい気もしていた。
駅前の喫茶店、そこは、よく敬介と入った店だった。島田が誘った店である。しかも偶然だろうか、島田も窓際の席に座り、そこは、以前敬介と一緒に来ていた頃指定席にしていたところの隣に当たる。由美子は背にしていたので見えないが、島田は正面に見ることになる。
「ここから見るロータリーが好きなんですよ」
と言いながら、由美子を見るよりも表を見下ろす方が多いくらいだ。
表を見ている目は決して笑ってはいない。じっと見つめる目は、どこまでも遠くを見ているようで、どこを中心に見ているのか分からないくらいだ。
しばらくは他愛もない話をしていたが、その間も島田は表を見つめていた。
日が暮れ始めると早いもので、店に入る時は、西日が眩しく、ロータリーから出てくる人の影が長くたなびいているのが見えていたが、じっと島田も影を、目で追いかけているものだと思っていた。
敬介も、ここからロータリーを見下ろすのが好きだった。由美子はそんな敬介の横顔を見るのが好きだったのだが、そこに会話はない。その時、
「桜の木が……」
と呟いていたのを思い出した。
見渡していたが、桜の木などどこにもない。ただ、視線は確かにあらぬところを見ていたようだ。その時に敬介の顔に夕日がまともに当たって、光って見えていた。だが、そんな時間はあっという間、日が暮れるのは早いものだと、ここに来るといつも感じていた。
島田はどうやら誰かを探しているようだ。由美子への意識が次第に薄れていくようだ。声を掛ける気にもならないので、由美子も表を見ているが、
――それにしても誘っておいて、失礼だわ――
という気持ちにもさせられる。だが、それを口から出したりはしない。出すだけ無駄だからだ。
どちらかというと、止まってしまった時間をどうするか、そちらの方が気になっていた。似たような時間は敬介とも過ごしたことはあるが、止まってしまった時間を楽しみたいという気持ちもあった。
温泉で敬介に抱かれた時を思い出し、顔が赤くなるのを必死に抑えていた。赤くなった顔を島田に限らず誰にも見られたくないという気持ちが働く。後ろめたさが少しでもあると、すべて見透かされてしまうような気になるのは、大人になった証拠だと思っていた。
島田の視線が動き始めた。相手が見つかったようだ。由美子も島田の視線を追いかけるが、そこには由美子の見知った人はいない。
髪を染め、少し無骨とも感じる女性を見つめて、にやりとしている島田を見ていると、思わず嘔吐を催しそうだ。しかもその目で由美子を見返した。思わず目を逸らしてしまったのも仕方のないことだ。
「あれが誰だか分かるかい?」
「?」
お世辞にも女性として綺麗とは言えなかった。女装した男性であるとするならば、きっと元々の男性は男として綺麗ではないだろうか。華奢な身体は、まるで子供のように見え、背中が少し丸くなって歩いている姿は、何とか女性に見せようとする健気な努力に見えてくる。
「敬介?」
作品名:短編集97(過去作品) 作家名:森本晃次