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呪縛の緊急避難

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「いいえ、私が知っている限りでは、ここ二年ほどですが、誰かおつきあいをしている人がいたという感覚はなかったような気がします」
 あくまでも、あいりの独自の感覚というだけの話であるが、思った通りを刑事に答えたのだった。
 この二年間というもの、絶えず一緒にいたわけではないが、ただ、一緒にいる時間だけを考えても、誰か付き合っている人がいるとすれば、デートなどのまとまった時間を取ることはできなかったであろう。それでも、誰か彼氏がいたのだとすれば、真美に対しての思いを根本から変えなければいけないだろうと、あいりは思った。
 そして、それはきっと自分の知らない相手ではないかと思った。もし知っている人であれば、時間を取りながら、あいりには絶対に知られないようにしないといけないという意識も手伝ってか、かなりのストレスになったからであろう。
 考えてみれば、この自殺も今のところ理由が分かっていないのだから、そのストレスの原因の一つとして考えられないこともない。自殺をするだけの何かがあるのだから、当然、あらゆる角度から考えてみることができるはずである。
 あいりは、質問に答える間に、それだけの思考を頭で組み立てていたが、それがどれほどの時間だったのかということを、ハッキリと分かったわけではなかった。
「とにかく、私にはよく分からないことが多いような気がしてきました。今回の自殺未遂もそうですが、ちょっと今は信じられないという思いが強いです。その思いを持っていると、自殺の原因にしても、限りなく考えられるような気がしてくるので、それが本当の彼女なのかを考えてみないと、自殺の理由すら、突き止めることができないような気がします」
「そうですね、本人は助かるなんて思っていなかっただろうから、きっと目が覚めればビックリするでしょうね。生きていることを喜べばいいのかきっと苦しむかも知れませんね」
 と、刑事はまるで禅問答のような表現をした、それはまさに、以前高校の時の修学旅行で確か京都に行った時、清水寺だったかどこかで、「不老不死の水」と言われるようなものがあり、そこでガイドさんが面白いことを言っていた。
「一杯飲めば、一日多く、そして二杯飲めば一年多く、そして三杯飲めば死ぬまで生きられます」
 と言っていたが、まさにその言葉のイメージである。
 しかし、実際には一杯でいいのであって、二杯以上飲もうとすると、欲深さを神様に見透かされてしまって、ロクなことにならないとも言われている。
 ひょっとして、この時のガイドさんの言葉は、その戒めとして、禅問答のような形で説教したのではないかとも思えた。
 だが、死ぬまで生きられるという言い方も実に微妙であり、誰もがそれを聞いて
「そんなの当たり前じゃん」
 と言って、まるで自分がバカにされたかのような感覚になることを悟るであろう。
 だが、生と死の世界の間にはれっきとした結界があり、一度超えると戻ってこれないものであろう。しかも、生の世界から死の世界に対しては入り口があるが、逆に死の世界から生の世界にその入り口は存在しない。(と言われている)
 それを思うと、真美は死の一歩手前まで行っていたところを戻ってきたことになる。
――死の世界とは、いったいどんなところであろう――
 と思わないでもいられない。
 極楽の世界や、地獄絵巻を思い浮かべるが、誰か見たことがある人がいるというのだろうか? 過去から通算すれば、どれだけの人間が生まれて死んでいったのか、生き返ったという人間を知らないだけに、死後の世界というものの存在すら疑わしく思えてくるのも無理のないことであろう。
 そういう意味でも、
「死ぬまで生きられる」
 という言葉も、実に風刺が効いていると言ってもいいだろう。死ぬということが、生きることの終点だということは分かっていても、その先を知っている人は誰もいない。
 もし、知っているという人が出てきたとしても、その信憑性はどこにあるのか、ウソつき呼ばわりされて、それで終わりではないだろうか。
 車が病院に着くと、真美の治療はまだ行われていた。さすがに手術までがしないといけないほどのことはなかったので、まだマシだったのかも知れないが、まだ意識は戻らないという。
 手首を切ったショック状態だったこともあり、二、三日は絶対安静だという。入院も面会謝絶の部屋が用意され、警察の事情聴取もそれ以降になるという。刑事は担当医師から彼女の容態について、少し話を聞いた。
「とりあえずは、命には別条ありません。心臓も脈拍も、血圧も問題はないようですね。ただ手首を切ったショックというのがありますし、今は結構な出血もありますので、点滴と輸血を行っているところで、二、三日は絶対安静を必要としますので、お話はそれ以降になると思いますね」
 と言われた。
「じゃあ、しばらくは、お話が聞けないわけですね。分かりました。では、後は先生、よろしくお願いいたします」
 と、言って、病室を出てきたところに、もう一人の若い方の刑事が合流してきた、
「どうしたんだね?」
「部屋を捜索していると、遺書らしきものが発見されましたので、できれば、涼川さんと一緒に見てもらおうかと思いまして」
 ということだった。
 もちろん、あいりにも異存はなかった。自分も真美がなぜ自殺などを試みたのか知りたかったのだ。
 刑事はそれを見せてくれた。内容はかなり端折っていて、自筆ということもあり、かなり筆は乱れていた。普段からパソコン打ちで、手書きなどほとんどないので、彼女がどんな字を書くのか分からなかった。その乱れた字がその時の精神上血を表しているのか、本当に字が下手なのか分からなかった。
 だが、字の大きさがまちまちだというのは、やはりかなり精神的に追い詰められていたのか、普通なら考えられないことであった。
 その内容は、あいりをビックリさせた。遺書というよりも、誰かに宛てた手紙のようにも見えるが、その相手はどうやら男性のようだ。実名は書かれておらず。イニシャルで、
「Kさん」
 と書かれているだけだったが、その内容は皮肉的な表現が多かった。
 皮肉というか、嫌味のようなもので、彼女が自殺をしておらずに、この手紙だけが発見されたのであれば、この手紙を書いた女は、だいぶ嫉妬深い人だと思われるだろう。
 嫉妬深いだけではなく、なかなか諦めの悪い雰囲気だ。本人も、
「これ以上付き合っていてもお互いにダメになる」
 という言葉を使ったり、
「一緒にいることが、どうしてできないの?」
 というようなことが書かれていた。
 彼女に対して別れが告げられ、それに対しての返事のようなものを書き連ねたものであってが、そこに死という言葉は出てこない。そういう意味で刑事は、
「遺書らしきもの」
 という表現にとどまったのだろう。
 そこに死という言葉がない以上、遺書としては成立しない。文章を見ているだけでは、本当にこれをその、
「Kさん」
 に送り付けようとしていたものなのかも知れない。
 書くには書いたが、それを投函するかどうか迷っていたのか、それとも、次第に死というものを意識してくることで、彼に対して、半分どうでもいいような気分になったのかも知れない。
作品名:呪縛の緊急避難 作家名:森本晃次