呪縛の緊急避難
と思ったが、そうでもないようだ、
二の腕部分に何かの力が加わっていて、その力が外部からではなく、身体の奥からであることが分かると、まだ彼女が完全に死んでいないことは分かった。
浴槽に雪崩れるように腕を垂れていたが、その先には指から話すことのないように、一本のカミソリが握られていた。もうそれを見る限り、状況は一目瞭然である。
――彼女が自殺を試みたんだ――
と思うと、やはり彼女には男がいて、それを悲観しての自殺であることは必至だった。
「とにかく、救急車」
まずは救急車に連絡し、それと同時に警察へ連絡をした。
この瞬間から、自分だけのことではなくなってしまったと分かってはいたが、その状況の中に一人だけいることで、余計に気持ち悪さがあった。
「早く救急車でも警察でも来てくれないかしら?」
一人自分をこんな状況に陥れた彼女を恨みさえした。
まだ死ぬとも生き残るとも微妙な状態に、何を不謹慎なことを考えているのかと思ったが、
「明日は我が身」
ということを考えてしまった自分が急に怖くなった。
――自殺をするとでもいうのかしら?
と思うと、先ほどの既視感を思い出した。
忘れていたわけではなかったはずなのに、どうしてすぐに思わなかったのか、どこかに思い出したくないという思いがあったからなのかも知れない。
――そう、あれは姉が自殺未遂を起こした時のことだった――
あいりは、二年くらい前のことを思い出していた……。
その時のことが脳裏に浮かんではきたが、その時の姉が助かった。数週間の入院は余儀なくされたが、それでも、回復は早い方で、退院してしまうと完治までにはそんなに時間が掛からなかった。ただ、後遺症はどうしても残るようで、心身共に結構大変だったようだ、
あいりは、その途中に入試などもあり、大学も家から通えるところではなかったので、途中はよく分からなかったが、結構大変だったという。
あいりは、ちょうど姉の自殺未遂の場面を見てしまった。自分が最初に発見したことには変わりはないが、その時自分の前には父親がいてくれたので、幾分か心強かった。しかし、今回は一人だけだった。嫌な予感はあったのだが、それでもその気持ちを打ち消そうとする自分がいたのだから、それは当然のことながら、偽りの感情であり、姉の時とはまったく違った感情があったのは無理もないことだったに違いない。
そんなことを考えていると、救急車が到着した。続いてパトカーもやってきたのだから、当然マンションの前が騒然となったことは想像にたがわぬことであろう。
管理人室からは管理人が飛び込んできた。
「どういうことですか?」
と管理人が言うのが早いか、さすがに救急隊員の行動は素早かった。
何も言わずに、管理人を押しのけて、担架を手に、そそくさと侵入してくる。それは目の前に誰がいようが同じことで、管理人であろうが、あいりのような女の子であろうが、救急に邪魔になると思えば、容赦なく跳ねのけていた。
だが、それは当然の行動であり、救急車やパトカーのような救急自動車は、道路交通法の外にあると思っていいだろう、
スピード制限はあってないようなもの、信号であっても、対向車や青である横断側を制して、こちらが優先なのだ。もし、道路に救急の妨げになるような違法駐車があったとして、救急のためやむ負えずその車を破壊して、救急車が走行した場合、相手の車は救急車に損害を賠償することはできない。むしろ、その時救急車が歯損していたとすれば、逆に救急車の側から、相手に対して損害賠償を請求できるのだ。
そういう意味で、普通の交通事故であれば、十:0という確率はありえないだろうが、相手が救急車ということになれば、その損害のすべてを救急車は相手に請求できるということもあるのだ。
それくらいしなければ、救急自動車の意味もない。緊急で人を救うための自動車であるからこそ、特別の指名を帯びているのだ。何があっても最優先であることにしておかなければいけないのは、誰が考えても当然のことである。
通報してから救急車がやってくるまで、かなりの時間が掛かったと思った。だが、実際に救急車が到着すると、その感覚が錯覚であったと自分で分かった。静寂でしかもこの惨状の中に取り残されたのである。そう思っても当然ではないだろうか。
「よし、大丈夫だ」
という声が聞こえた。
そうなると、救急隊員の処置は早かった。まったく迷いはなく、人工呼吸器に点滴と、いかにも救急搬送のシーンをドラマで見るかのようだった。
記憶喪失
ゆっくりとしてれば、邪魔になりかねないと思ったあいりは、その場所から離れたところに身を潜め、なるべく存在を消しながら、救急隊員の粛々とした行動を見ていると、そうは問屋が卸さないとばかりに、肩をトントンと叩く人がいた。
ビックリして後ろを振り返すと、そこには一人の制服警官と、二人の私服の男性がいた。
「ちょっとお話を聞かせてもらえるかな?」
と、私服姿の若い男性が代表してそういったのを見ると、警官の横にいた二人の私服の男性は、刑事さんであるとろに間違いはないようだった。
「あ、はい」
と言って、警官が差し出した手に捕まって、やっと腰を上げることができた。
どうも途中から中腰になっていて、次第に座り込むようになっていたようで、それもあまりのことに自分でもよく分かっていなかったのだろう。
ニッコリと笑顔を見せた警官は、いかにも、
「街のお巡りさん」
という感じのとてもいい雰囲気の人だった。
警官というと、中年か初老のひとを思い浮かべていたのは、昔のサスペンスドラマなどの再放送のイメージが強かったからであろうか。あいりは結構テレビは見る方で、しかも、昼間の再放送サスペンスを録画しておいて、休日に見るのが好きだった頃があった。大学時代には平日の昼間など、友達と予定が合わない時などは、早く帰ってきて、サスペンスの再放送を見たものだった。
そのおかげでサスペンスドラマのパターンは分かってきて、トリックというものに注目すると、実に面白くないのだが、ストーリーとして見るしかないと思っていた。
三人があいりを連れていったのは、奥のリビングだった。想像していた通りだったので、別にビックリすることもなく、あいりは、三対一という状態であったが、臆している雰囲気はなかった。
真ん中には一番の年上の刑事さんがいたが、質問は左に座った若い方の刑事がするようで、手帳を取り出して、メモをしながらの聴取になるようだ。
「まずは、あなたのお名前とご職業などをお伺いしましょうか?」
と聞かれたので、
「私は涼川あいりと言います。今年で二十五歳になります。仕事は、M商事で事務をしています。ここの住人の方とは同期入社で、仲良くしてもらっています」
と答えた。
「じゃあ、このお部屋の方とは、仲が良かったということは、ここにも何度か訪れたことがあるというこtでしょうか? ここの住人は山口真美さんという女性のようですが、同じ会社に勤めておられるということでいいんですね?」