呪縛の緊急避難
彼は、女性に対して平等であるということを信条にしていた。それが彼にとってのポリシーなのだが、そう思うようになったのはどうしてなのか? それは彼の家族に原因があったのかも知れない。
晋三の父親は、晋三の母親に対して、結構冷たかった。しかし、他の女性に対しては優しかったようで、外面はいいのだが、家にいる時は、完全に亭主関白。いわゆる内弁慶だったのだ。
そんな父親を見ていると、母親が可哀そうであり、まわりの人は気を遣ってもらっているわりに、そんな父親に対して苦笑いをしている。その様子は何とっもぎこちなく、そのぎこちない理由がどこからくるのか分からなかった。
それは晋三がまだ子供だったからで、分からなかったことなのかと思っていたが、大人になってもよく分からない。
――大人になったと思っていたけど、まだまだ子供なのかな?
とも思ったが、そんなことではない。
むしろ、大人になるほど、子供の頃よりよく分からなくなっていた。
――どうして、あんなに気を遣っているのに、気を遣われた人が苦笑いして、変な気の遣い方をしなければいけないんだ?
と思った。
それは、気の遣い方というものは難しいもので、一歩間違えるとまったく逆の効果をもたらしてしまうからではないかと思えば、それほど難しいことではないはずなのに、晋三にはそう思うことはできなかった。
――人に気を遣うということは、損をすることだ――
という意識が強くなり、逆に、気の遣い方をうまくやれば、女心なんか簡単に操ることもできるのではないかという変な妄想に駆られた時期もあった。
ただ、これは晋三独自の気の遣い方であって。少なくとも愛想笑いなどをするだけのような気の遣い方は気持ち悪いだけで、人を操るなどできるはずもないのだ。
そんな手にひっかかるのは、よほどの女性なのだろうが、数は少なくともいいから、操ることができそうな女性がいさえすればいいと思っていた。人数が少ない方が後で面倒なことにもならないという相乗効果があることは、その時には分かっていなかった。
まわりの女性皆に平等であることは、まるで自分が宗教団体の教祖にでもなったかのような気がするからだ。
――人の心を操るのは、宗教団体の教祖のように、まわりから絶対の信頼を受けるオーラを持っていて、そして、皆に平等であることだ――
と思っていた。
前者はこれからの自分の努力であるとし、後者に関しては、今すぐにでもできることだという思いを子供の頃から抱いていた。もちろん、思っているのは、従わせられる女は一人でもいいと思っているので、宗教団体の教祖のような大それたことを考えているわけではない。
あいりは、真美に対して気になるところがあった。いつも左の手首にサポーターをしていることだった。夏の暑い日であっても、冬であっても、手首からサポーターを外したのを見たことはなかった。最初に会った時から何か違和感を抱いていた。ただ、その違和感は、
「その場にふさわしくない」
という意味があっただけで、逆に、
「以前にも見たことがあったような」
というデジャブに似た既視感があったのも事実だった。
それがどこから来るものだったのか、すぐには思い出せなかったが、それからすぐに思い出した感覚と、その時に見た真美の手首の痛々しさがあることから、あいりは真美と仲良くなろうと思ったのだ。
本当であれば、性格も似ているわけではないところから考えても、決して仲良くなれるはずのない相手だと思うだろう。実際に同じことを相手も感じていたようで、なかなかあいりを自分の範疇に近づけることのなかった真美だったが、しつこくしていると、相手が根負けしたのか、いつの間にか仲良くなっていた。もっとも根負けしたというのは、真美が自分で言っていたからそう思ったのであって、あいりの方では、どちらかが根負けしたという意識はない。ひょっとすると、どちらも同時に根負けしたことで、お互いに根負けという意識がないことで、表に感情が出ることがなかったというだけのことだったのかも知れない。
あいりと真美は、次第に仲良くなっていったのだが、その間、ぎこちなかったのは否めなかった。お互いに肝心なことは言わなかったし、変な気の遣い方をしているとも思った。しかし仲良くなっていくことに違和感はなく、一緒にいることが自然であることに、
「私たちは、以前から友達だった」
という自然な感覚が芽生えていたのは事実のようだった。
だからであろうか、あいりは時々真美から妙な時間に連絡があり、急に来てほしいなどというわがまま千万な要求が来ても、
「しょうがないな」
と言って、駆けつけることが多かった。
あいりは恩に着せているつもりでも、真美の方はまったく気にしていない。そんなおかしな関係を、あいりは嫌な気はしていなかった。むしろ、
――早く分かってよかった――
と感じていた。
一人で抱え込むとどうしても、ロクなことを考えないだろうと思うからであった。
自殺未遂
その悪い予感が的中したのは、季節的には、もうとっくに秋になっていなければいけないのに、まだまだ表は暑く、そのくせ、めっきりセミの声も聞こえなくなってきていて、コオロギやら鈴虫などの秋の虫の声が奏でる夜長に、
「体調を崩さないようにしないと」
と思っていた、九月末くらいのことであった。
その日は、前日からの雨がやっと上がって、そのくせ暑さだけが残ってしまったようで、夜になっても、アスファルトから立ち上ってくる蒸気が不快指数をどんどん高めていくのだった。
あいりは、真美の部屋まで、自分のマンションからさほど時間は掛からないところに住んでいた。会社に行くよりもよほど近い。
お互いに地の利を生かした関係も、友達として有利に働いていたのかも知れない。時々お互いの部屋を行き来して、一緒に食事を作って食べたり、自分から相手を食事に誘うなどということもあった。性格的にはあまり似ていない二人であったが、料理という共通点があったのも事実で、その数日前くらいから、少し距離が遠ざかっていたので、気にはなっていた。
あいりは相変わらず、彼氏はいなかった。作ろうという意識はあったが、肝心なところで億してしまうのか、いつも彼氏ができるまでには至らなかった。真美の方もあいりが知っている限りでは、付き合っている人はいないようだったが、お互いに異性のことは、相手が相談してこない限り、余計なことを聞かないというのが、二人の間の暗黙のルールになっていた。
二人の関係でうまくいっていた秘訣は、お互いに暗黙のルールを作るという共通点があったことで、余計な詮索もないので、お互いに気持ちよく付き合える相手として、選んでよかったと思っているのだった。
そんな真美からの呼び出しで、
「どうしたんだろう?」
という気になっていたが、数日連絡がなかったことでも一抹の不安があったのも事実だった。