呪縛の緊急避難
だから、、姉に対して、
「悪いことをした」
という思いがずっと消えずに、この思いも一種のトラウマとして残ってしまった。
あいりが真美の自殺を見た時、
「なんとかしてあげたい」
と思ったのは、姉に対しての自責の念と、真美との間にも自らで平行線を描かないようにしないといけないという思いとが、皮肉にも交錯していたということである。
この二つの姉と、真美の自殺未遂。交わることのない平行線を交錯させるとすれば、それはあいりのトラウマによるものなのかも知れない。
その先に見えているもの?
あいりのトラウマは緊急避難の発想を抱かせた。
あいりは、誰か一人を犠牲にしないと生き残れないかのような妄想を抱くようになったが、ひょっとしてその相手が真美だったのではないだろうか。あいりは真美を騙した相手、そして姉を騙した相手を分かっている。
本来であれば、真美が巻き込まれることもなかったのだが、何と真美にその男を紹介する形になったのは、あいりの行動だからだった。
「本当に二人がくっつくなんて、思ってもいなかった」
とあいりは思っているが、本当だろうか。
あいりは、自分の定期的な記憶喪失を分かっていて、それを利用して真美をその男に近づけた。
その男はいうまでもなく、川本晋三である。
この男は、下衆以外の何者でもなく、今までに何人の女を泣かせてきたのか分かったものではない。自殺未遂も、中には本当に自殺した人もいたかもしれない。しかし、罪に問われることもなく、のほほんと生きている。生き残っているというわけではなく、大手を振って生きているのである。まるで、あいりにトラウマを植え付けた外人と変わらないではないか。
あいりは、姉の自殺の原因が川本であると、最近まで知らなかった。もっとも、この男がロクなものではないということは分かっていたのだが、実際に、真美とくっつくようになるなど想像もしていなかった。忠告はしたが、すでに真美はこの男の毒気に侵されており、忠告など聞く耳を持っていなかった。完全に盲目になっていたのだが、それも自分が川本という男を甘く見ていたからだろう。
そもそも真美は騙されやすい人物だったのかも知れない。それこそ、緊急避難の状態になれば、一番に犠牲になりそうなタイプで、あいりや姉の渦中に、言わずもがな引きずり込んでしまうような形になったことが、真美の運の尽きだったのかも知れない。
それでも死ななかったというのは、不幸中の幸いだっただろうか。いや、あいりとすれば、
「あの程度のことで自殺未遂なんて」
という思いもあり、同情も中途半端なものになっている。
川本という男、ロクな死に方をしないだろうと思っていると、実際にそうなったようだ。
街で女の子と歩いているところをチンピラに絡まれて、よせばいいのに、敵うとでも思ったのか、向かっていって、そのまま刺殺されてしまったという。
女もその瞬間に我に返り、川本という男を擁護することもなく、事情聴取にも彼の悪口ばかりを並べたという。実際に悪口しか彼の印象はなく、少しでも擁護するつもりがあれば、ウソをつく必要がある。彼女からすれば、川本は、
「ウソをつく価値のない男」
として映ったのだろう。
何しろ、普通であれば、
「死んだ人のことを悪く言うのは憚る」
というのが定石なのだろうが、自分がウソをつかなければいけないとなった場合の天秤は、火を見るよりも明らかった。
その話を知ったのは、かなり後になってからのことだったが、真美はしばらくはまだ十院を余儀なくされた。
あいりは献身的に尽くしていたが、それは罪滅ぼしというわけえはない。どちらかというと、姉にしてあげられなかったことを真美にしてあげることで、自分の中にあるトラウマも一緒に改称しようというのも狙いだった。
また、自分が緊急避難の場所から遠ざかったことで、一度は犠牲者にしようと考えた真美に対しての自責の念もあったのかも知れない。それを思うと、自分がどれほど浅はかだったのかを思い知らされるが、実際に緊急避難の感覚に陥ったのが、自分の記憶が失われていた時であった。
あいりが、真美をきn級非難の最初の犠牲者にしようと思ったのは、真美の中に、トラウマを植え付けた外人のイメージがあったからだ。どこをどう取って、そう思うのか、似ても似つかないはずなのに、どうしてそう感じたのか、あいりも今はその時の感情を思い出せない。
――やはり、隠れた記憶の封印の中にその答えがあるのかも知れない――
とあいりは感じた。
そもそも緊急避難のイメージがどうして自分の中に植え付けられることになったのか、そこが分からない。定期的な記憶喪失をおぼろげに感じていたあいりだったが、それが鮮明に事実として感じるようにさせられたのが、真美の自殺未遂による記憶喪失である。
――考えてみれば、自分と真美のこの極端な記憶喪失の違い、どっちが一般的なのだろうか?
とも思った。
普通なら真美の方が一般的だろう。記憶が定期的に現れたり隠れたり、そんな不安定な精神状態が続くというのは不自然に思えるからだ。
ただ、あいりは自分が真美のどこが一番嫌いな部分なのかを最近分かった気がした。
真美という女性は、いつも体裁を重んじる方だった。化粧も態度もそうだった。
「人並みに」
という言葉が似あいそうで、
「人と同じでは嫌だ」
と思っているあいりとは基本的に考えは違っている。
「体裁なんて、クソ食らえだ」
と思っているくらいで、人並みという言葉も虫唾が走るほど嫌だった。
だから、緊急避難の最初の犠牲者は、真美だったのだろう。
真美は、そんなあいりの心境を知る由もない。それだけにあいりとしては、イライラするくらいに悔しさが滲み出ていた。
あいりは、人のことを嫌いになればなるほど、自分の意識が遠のいていくのを感じていた。
―ーひょっとすると、定期的に記憶が見え隠れする状況へのパスポートは、自分の中にある人間憎悪の気持ちからくるのではないだろうか?
と思うようになった。
その気持ちは当たらずとも遠からじ、自分の中でそうであってほしいという心情が込められているのだった。
――それとも、私に姉の魂が乗り移ったんじゃないかしら?
と感じることもあった。
自分の裏に潜んでいる、もう一つの性格というのが、どうも姉のような気がしてきていた。その思いを感じたのは、真美が自殺を試みた現場を見た時で、あの時、
――真美ちゃんも、記憶を失うんじゃないかしら?
と感じたのも事実だった。
だからこそ、今こうやって真美に寄り添っているのであって、
――決して見捨てているのではない――
と自分に言い聞かせているのだった。
あいりの中で、姉を自殺に追い込んだ男は、諸悪の根源だった。その男の存在があったから、自分が自分らしく生きられたと思っている。ここでいう自分らしさというのは、定期的に入れ替わる記憶をうまく操作して、うまく生き抜くという意味である。
だが、これはあくまでも機械的な感覚であり、本当の自分の意志とはかけ離れているような気がする。
それを救ってくれる相手がいるとすれば、それが真美だった。