呪縛の緊急避難
だが、なぜか躁鬱症が消える時は、その前兆もなければ、気が付けばいつも抜けている。予感もなければ、実感もないのだ。-
――記憶を失ってみたい――
と感じたことが今までに何度かあった。
何が理由だったのか、ハッキリと覚えていないが、その何度かのうちの一度は、ただ記憶を失うとどうなるのか、それを感じてみたいと思っただけだったような気がする。
記憶を失うというリスクがどういうことなのか、まだ学生だったあいりにはピンとこなかった。
もちろん、記憶を失いたいと思っているくらいだから、ロクな記憶しかないと自分で思い込んでいる時であり、本当であれば、失いたくない記憶もあったはずで、ひょっとすると、そんな記憶は喪失しても、消えることのないフンインしている場所に格納していることで、記憶の内容までは覚えていないが、その部分が消えることはないという思いの元だったのかも知れない。
そう思うと、今度は、
――真美が記憶を失ったことは、彼女にとって良かったのだろうか?
と、考えるようになった。
真美は、記憶を失ってからというもの、無表情になっていった。元々感情が顔に出るタイプではなかったが、あいりが見ていれば、その時の感情の喜怒哀楽くらいの基本的なところは抑えることができた。
記憶を失ってからの真美に、喜怒哀楽は感じられない。笑顔もなければ、悲しいような表情もない。いつも明後日の方向を向いているのだが、その焦点は合っていない。つまりは、
「見えているようで、見えていない」
という感覚だ。
それは、まるで、
「道端に落ちている石ころ」
を見ているようなものではないか。
孤独を感じるわけでもなく、見えるはずのものが見えない。何を見たいのかすら分かっていないのだから、見たくないものを見なくてもいいだけ、マシなのではないだろうか。そう思うと、真美が記憶喪失になったのは、自殺をしたショックからではなく、
――記憶を失いたい――
という意識がハッキリとそこに孫座していたのではないかと感じた。
そう思うと、
「記憶喪失に陥るためには、その本人が、記憶を失いたいということをハッキリと意識しない限り記憶喪失になることはできない。だから、記憶喪失から戻る時は、記憶を失いたいと思っている感覚を消し去るか、記憶を戻したいと自分で思うしかないのではないか。記憶を失いたいと思っている感覚は、今は潜在意識の中、つまり本能の中にあるので、それを意識するには、夢を見るしかないのではないか」
とあいりは感じてきた。
――記憶喪失の人って、夢を見るのかしら?
と思って、真美に聞いてみると、
「夢? そういえば見たという記憶はないわ」
と言っていたが、真美を見ているとあいりが考えている夢と、聴かれた時に感じた真美の中での夢とは、
「果たして、同じものなのだろうか?
と感じるのだった。
晋三のことを、
「道端の石ころ」
と考える根拠は、街に蔓延る外人どもと違った意識として、
「何でも人のいうことを『はいはい』ときく、イエスマン」
という意識が強かった。
普段は人とまったく接することがないのに、すべての人が関わらなければいけないことの場合には、完全に相手が自分よりも立場の強い人であれば、まったく抗うこともなく、悪いことであってもしたがってしまう。そんな男であった。
女性の中にはそんな男に対して母性本能を抱くという人もいるようだが、あいりは気持ち悪いだけだった。考えてみれば、晋三のような男に対して、一番虫唾が走るほど毛嫌いしそうなのが真美なのに、どうして真美が晋三の似顔絵などを描いたのか、不思議で仕方がない。別に二人は付き合っているというわけではなく、無意識のうちに描いたのだとすれば、毛嫌いしている雰囲気が絵に現れていそうだが、そういう雰囲気でもない。
ただ、絵を見ていて、やはりまったくの無表情で、
「この人は、これ以外の表情をすることって、あるのかしら?」
と思うほどのポーカーフェイスだった。
「何を考えているのか分からない」
まるで外人どもに感じる感覚で、気が付けば、歯を食いしばって苦みばしい表情になっていることだろう。
まったく無表情なくせに、イエスマンであるという矛盾した態度が嵩じて、
「道端の石ころ」
をイメージさせるのかも知れない。
本当にどうでもいいやつだと思うことが石ころであり、外人を思わせることで、苦み走った感覚に陥るのであった。
――それにしても、私もどうして、こんなどうでもいいと思っている相手を、こんなにも気にしてしまうのだろう?
あいりは、今まで誰かを意識すると、その過去において、何かがあったのではないかと感じることが多かった。そのほとんどは勘違いなのだが、晋三に関してはそうでもなさそうだ。
会社に入ってから初めて出会ったはずなのに、以前にもどこかで会ったような気がしていたのは、気のせいだったのだろうか?
それを感じさせたのは、本当に最近のことで、
――何を根拠に?
と思っていたが、それがどこから来るものだったのか、少しして分かってきた気がした。
――そうだ、真美が描いたあの絵。あれを見ていると、以前にも見たことがある顔だ――
という意識になってきた。
しかも、それは虫唾が走るほどの厭らしさで、まるで血管を無数の虫が這いまわっているかのようなゾッとしたものだった。
そこに寒気を感じることで、まったくの無表情な中に、この男に対しての口では言い表せないような恨みと憎しみすら感じられた。今までに何も関係がなかった相手にそんな感情を抱くはずもない。
あいりは、
――まさか、私も記憶を失っていたのではないか?
と感じた。
一時的に記憶を失ったことがあって、その記憶を失っている間に培われた記憶が、元の記憶が戻った時にm飛んでしまったのか、それとも記憶の奥に封印されてしまったのかのどちらかではなかったか。その時は自分が記憶を失っていたということを意識していたのに、時間が経つにつれて、自分が一時期でも記憶を失っていたということを忘れてしまったのではないだろうか。
二つの記憶喪失
この記憶喪失は本当に軽いもので、まわりの人であいりが記憶を失っているということに気付いた人が果たしていただろうか?
記憶を失っていた時期というのも、ごく短い期間であり、その間に遭わなかった人も友達の中にも結構いたかも知れない。
確か、夏休み中だったか何かで、しかも、その頃は友達も皆忙しかったか何かで、一緒にいる機会が、本当に減っていたことだった。
それを思うと、記憶喪失に陥った時期に、何か問題があるのかも知れないと感じたのだった。
それにしても、自分のまわりで記憶を喪失する人が、自分を含めて他にもいるというのは、実に不思議な感覚だった。
真美の記憶喪失は、あいりの時に比べると長そうな気がした。あいりが記憶喪失になった理由が分からないのに対し、真美の場合は、
「自殺未遂」
という確固たる事実が存在している。