呪縛の緊急避難
その絵の被写体が、写真からなのか、それとも自分の想像によるものなのか分からないが、角度と言ってもまるで写真の感じがするので、きっと元は写真だと追われるのだが、その絵の医者が指差したところは、建物の中心にある煙突の王な細長い建物に小さく開いている窓のような穴があった。
黒く塗りつぶされているかのように見えたのだが。そこには、何か人の気配が感じられる。よく見えと米粒くらいの人が窓から顔を出しているではないか。
かなり微妙な大きさで、
「これは見えていないと描けないものではないかと私は思うんですよ。実は私も絵を描くのが好きなので、この絵を見て最初に違和感を抱いたんですが、それが、この窓のところだと気付くまでには結構かかりました。ひょっとするとこの絵は、かなり優秀なものかも知れません。私のような駆け出しには分かりませんがね」
と言って、笑ったが、医者は笑いながらも、じっとその絵を見ていた。
彼女の中にも、この窓のようなものがあり、そこから外を覗いているのではないかと思ったのは、あいりだけだっただろうか。
「でも、彼女が多重人格ではないかと思うのは、結構信憑性が高い気がします。この絵を見ていて、それをハッキリと感じるんですよ」
と医者は言った。
真美はそれから、何かの絵を描いているようだった。それは似顔絵であり、真美は自分が一番得意なのは似顔絵だったということを思い出したようだった。
それが彼女の思い出した最初であり、医者にそのことをいうと、
「これからいろいろ思い出してくるかも知れませんね」
と言っていたが、あいりも、
――その通りかも知れない――
と感じた。
真美の絵は、前述のように、
「似顔絵って久しぶり」
と言いながら、数日で完成した。
その絵を見た時、あいりは愕然となった。
そこに描かれている絵は、
「川本晋三」
つまり、会社の同僚であるが、なぜ彼の絵を彼女が似顔絵として描いたのか、もちろん本人も分かっていないようだった……。
川本晋三
川本晋三は、近くの大学を数年前に卒業し、別に成績がよかったわけでも悪かったわけでもなく、ごく普通に就職活動を行っていて、就職できたのがこの会社だったということで、それほど目立つこともなく入社してきた。真美やあいりからすれば、数年先輩であるが、本当に平凡で、まったく目立つことはなかった。
あまり目立たない人の中には、目立たないことで却って目立つような人もいるが、彼の場合は本当に存在感が消えているような目立たない男性だった。
容姿も別に特記することもなく、誰も彼のことをウワサしない。
ウワサになるようなこともなく、彼女がいるのかいないのか、それすら関心がなかった。
そんな晋三だったが、学生時代はそれなりに彼女もいて、一年くらいは交際が続いた相手もいるというが、本当であろうか?
あいりには信じがたい気がしたが、それを疑って、気にするほどの相手でもない。
つまりは、誰が見ても、
「どうでもいい人」
という雰囲気が滲み出ていたのだ。
だが、これも不思議なことなのだが、人によっては彼のことがどうしても気になって仕方のないという人もいるようだ、
それも女性にである。
ただ、それも彼を男性として好きになるなどというものではなく、人間として認めたくないというほどの毛嫌いであった。
まるで害虫か何かのようなイメージで見ている。
特に分かりやすいのは、会社の中で、外人が嫌いな女性がいた。最近は会社にも国の方針か何か分からないが、外人が増えてきた。
我が物顔で、まるで自分たちの国のように振る舞っているがそれが許せないという。
真美もあいりも、正直、外人が嫌いだった。昔の差別のあった時代をとやかくいうわけではないが、今はその時代に立ち返らないようにと、差別をなくすという名目で外人を擁護しているようだが、見ていて甘やかしているようにしか思えない。
コンビニでも飲食店でも店員といえば、外人ばかり。言葉もまともに分からないくせに、愛想もくそもない連中が溢れている。
しょせん、あの連中は、留学生などという名目のくせに、ロクな教育も受けず、日本の文化を理解もせずに、我が物顔だ。
「郷に入っては郷に従え」
という言葉を、あの連中は分かるはずもない。
どう見ても、日本人をバカにしているとしか思えない。
そんな外人どもを見ているような感覚が、川本晋三にはあった。
川本晋三という男は、どう見ても女にモテるというう雰囲気はない。もし女と一緒にいるということがあれば、それはオンナの弱みでも握って、従えているだけではないかなどどいう下衆な考えを抱いてしまうほどだ。
彼の内面から溢れる暗い雰囲気は、まさに気配を消していて、わざと人から意識されないように仕向けているのか、ぱっと見では分からない。
だが、まるで日本人離れした、あの外人のような目は、気色悪いという以外の何者でもない。
そんな彼の似顔絵を真美は描いた。
何を思って描いたのか分からないが、その表情にはまったく感情が感じられないようだった。
「なあ、真美ちゃんは、この人を知っているの?」
記憶さえしっかりしていれば、こんな質問はおかしい。
同じ職場の人間なのだから、
「知っている?」
というのは、おかしく、まだ、
「覚えているの?」
という方が正解である。
それをわざわざ、知っているのかと聞いたのは、彼女がこの絵を描いたのが本当に無意識からなのか、それとも無意識の中に純粋なものだけではない何かが存在しているのかが知りたかったからだ。
「ううん、知らない人。でも、ここに被写体になる人がいなかったので、イメージで描いたらこんな人が出来上がったの」
というではないか。
これを額面上、素直に受け取れば、あくまでも彼女の理想の男性なのかも知れないと考えられるが、何かを知っていて、無意識の中で覚えている意識が彼を描かせたのではないかと思うと、この自殺の理由も分かってくる気がした。
――そういえば、イニシャルが「K」さんではなかったか?
という思いがあり、ここでいよいよ川本晋三がクローズアップされてきた。
あいりにとってどうでもいいタイプの男だったが、真美には何か引き付けられるものでもあったのだろう。彼には特定の女性を引き付ける「蜜」のようなものがあるのかも知れない。引き付けられる人に何か共通点があるのか、それとも不特定多数なのかは分からないが、少なくとも彼の発する何かに反応する人もいるということであろう。
もっとも、この感覚は彼だけではない、男性一杯、いや、むしろ男性よりも女性の方にその傾向があるのではないか、女性が特定の男性を引き付ける魔力のようなものを持っていると言われ、小節やマンガのネタになることは、昔からあったではないか。それはまるで人類の理想郷、その人にとってのハーレムというものである。その本人が望む望まないにしろ、引き付けられた人は、まるでハーレムにいるような感覚になるのだろう。