呪縛の緊急避難
緊急避難という発想から少し脱線してしまったが、逆に言えば、緊急避難という四文字の言葉から、いろいろな発想が浮かんできて、これまで誰も想像もしたことのないような発想が浮かんでくるということもあるだろう。
それこそ超常現象として、脳の使われていない部分を使うということと接点を感じるのではないだろうか。
今までに見た夢の中で一番怖いと思ったのは、
「もう一人の自分」
が夢の中に出てくることだった。
しかも夢を見ている時、
――もう一人、自分がいるような気がする――
と夢の中で感じたような気がした。
つまり、予感めいたものがあったということである。
「もう一人の自分を見ると、その人はまもなく死ぬことになる」
というドッペルゲンガーという発想、最初に自分が夢に出てきた時は、そんな伝説があるなど思ってもみなかった。
もう一人の自分の存在がとても怖いという意識だけはあったが、なぜ怖いものなのか、ハッキリとしなかったのだ。
「世の中には、自分に似た人間が三人はいる」
と言われる。
しかし、これはドッペルゲンガーとも違う。ドッペりゲンガーというのはあくまでも自分であり、似た人ということではないのだ。
またドッペルゲンガーというのは、その本人の行動範囲以外に現れるということはないという。
海外旅行をしたことのない人を、
「アメリカで見た」
と言っても、それはただ似た人というだけで、ドッペルゲンガーではない。
ドッペルゲンガーというのは、かなり制限があり、見ることができるとすれば、それは結構レアではないだろうか。そういう意味でも、
「見ると死ぬ」
という都市伝説もリアルな感じがしてくるのだった。
夢の中で見る、
「もう一人の自分」
というのは、ある意味、緊急避難が招くものだと言えないだろうか。
何か気になるものがあり、そこから逃げようという意識はあるが、その気になるものが何なのか、漠然としていて分からない。
分からないだけに恐怖を感じるのだが、その恐怖を煽っているのが、曖昧さだと思うと、一番夢の中での恐怖に思っているもう一人の自分を登場させることではないかというのも無理もないことなのかも知れない。
そんなもう一人の自分を緊急避難として夢は使うのだとすれば、夢の中でもう一人の自分を見たことが、今回の記憶喪失という自殺未遂からの後遺症を引き起こしたのかも知れない。
そして、その夢を見た時、
――ひょっとして、死にきれなかった時は、記憶喪失になっているかも知れない――
という予感があったのではないかと思えるのだった。
ただ、死にきれなかった場合に記憶喪失になるということは、それからの自分をリセットできるような気がしたことで、死ねなくても悪いようにはならないと感じさせ、自殺を容易ならしめたとも言えるかも知れない。
どんなに思い切ったとしても、必ず躊躇いはあるものだ。特に今まで何度も自殺を試みて、一度も成功したことはないのだから、その思いは特に強いかも知れない。
今までに何度も自殺未遂を試みて、今までに何度救急車沙汰になったのだろうか?
今回が初めてではないだろう。警察の方でも、自殺志願常習犯としてマークされていたかも知れない。
しかし、自殺をしようと考える人をいくら注意していても警察ではどうすることもできないだろう。四六時中見張っているわけにもいかないし、自殺する方も、いきなり自殺を試みるのだから、精神的な動きを察知していない限り、どうすることもできないはずだ。
そう思うと、止めることはおろか、注意のしようもないものだ。
緊急避難の発想と、夢の中での、もう一人の自分。そして、自殺を試みるということは、普通に考えれば、接点はないような気がするが、そこに何か一本の線を敷くことで一つにできるとすれば、
「自分の世界に、他人が入り込んできて介在すること」
しかもその他人というのを、本人は他人だと思っていない。
下手をすると、相手は何とも思っていない人なのに、自分の中だけで勝手に思い込んでしまい、自分で自分をマインドコントロールしてしまう。その他人を、もう一人の自分として意識してしまうことで、最悪なシナリオを描いてしまい、そこから逃れられない自分を想像する。そんなイメージが、緊急避難という発想で形づけられる。冷静に考えると、これほど怖いものはない。
真美は入院するようになってから、少しずつ体調もよくなっていった。最初の頃は似顔絵を描くのも嫌がっていたが、それは自分が似顔絵を得意だということを信じられなかったからである。
だが、
「これはあなたのものなんですよ。それにこれはあなたが掻いた絵なんですよ」
と言われて、スケッチブックを見ると、自分が掻いた絵なのに、まるで美術館の展示絵を見ているような好奇心旺盛な目をしていた。
元々絵が好きなので、上手に描かれている絵を見ると、
――私もこれくらいの絵を描けるようになりたい――
と思ったとしても、それは当たり前のことであろう。
しかもそれは自分が掻いた絵だという。記憶を失う前の自分がどんな絵を描いていたのか、実に興味があった。
「それにしても上手だわ」
これが自画自賛でなくて、なんだというのか。
だが、描いた本人が記憶を失っているのだから、絵の素晴らしさに感動したとしても、あくまでも自分が掻いたという実感がないのだから、無理もないことだ。
自分の描いた絵を見ることで真美は精神的に落ち着いたようである。
スケッチブックに描かれた絵は、人物画であったり、風景画であったり、建物であったりと、あらゆるものがあり、それぞれに特徴があった。
真美の描く絵の特徴は、被写体によって、微妙にタッチが違う。まるで別人が掻いたかのような描き方で、繊細に描かれた部分と、大雑把な部分が、それぞれの被写体によって違っていた。
「まるで別人が描いたように見えるけど、これ本当に同じ人が描いたのかしら?」
と真美がいうと、
「それはそうでしょう。あなたのスケッチブックなのよ。あなた以外に誰が描くというのかしら?」
とあいりも真美がなぜそんな疑問を抱いたのか分からなかった。
しかし、絵心がないあいりとしては、真美のその疑問がどこから来るものなのか分からなかった。
あいりも小説を書くので、芸術的な視点は真美に近いものがあると思っていた。ただあいりが書く小説は偏っていて、いろいろなジャンルを書くというわけではない。被写体をいくつも描いている真美とはどうも見る視点が違っていると感じてきた。
だが、いかにジャンルが違っていると言っても、こんなに違うものだろうか。医者もそのことには気づいているようで、
「どうも、山口さんは、多重人格的なところがあったのかも知れませんね。それに、これは非科学的な見地になるので、医者としては何とも言えないんですが、彼女には、私たちには見えない何かが見えているのではないかと思うんですよ」
「どういうことですか?」
「例えばこの絵なんですけどね」
と言って、彼女が描いた絵の中で、西洋の城を描いている風景画があった。