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呪縛の緊急避難

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 生き残ったことを最初は嬉しく思ったことだろう。しかし、それはあくまでも現実逃避の意識からで、気が付けばさらに最悪の構図を自らで選んでしまったことへの激しい後悔が襲ってくるのだ。
「俺たちが生き残れる可能性は皆無に等しい」
 誰もがそう思っているだろう。
 正直、もう生き残ることを望んではいない。早く楽になりたいというのが本音だ。しかし、死というものを知らず、その死を後は迎えるだけだと思うと、その恐怖は計り知れない。
 その恐怖は、生きたまま棺桶のような箱の中に埋められ、そのまま土葬にされた状況に似ている。この状況をミステリーなどでは、一番惨たらしい殺害方法だとして形容しているが、ボートでの遭難などが書かれることはあまりない。なぜなら、これは殺人ではなく、事故なのだから、事件として扱うことはできても、この恐怖を題材にするというのは、珍しいのではないだろうか。
「もっとたくさんあってもいいのに」
 と思ったが、逆にいうと、この状況の方が、生き埋めよりもさらに恐怖が強く、文章にするには難しいということを意味しているのかも知れない。
 生き埋めを想像するよりも、ボートで遭難する方を想像する方が、想像しやすいような気がしたのは、あいりだけであろうか。
 そういう意味で、あいりも一度はこの恐怖を文章にしてみようと試みたが、やはり経験したわけではないので、なかなか表現は難しかった。まだ、生き埋めの方が書けそうな気がするくらいだった。
 生き埋めに関しては、一度途中まで書いてみたが、やはり描くことができなかった。書いているうちに、精神的な堂々巡りを繰り返してしまうからだった。
「精神的な堂々巡り」
 その言葉の意味するものが何なのか、よく分からない、
 だが、堂々巡りを繰り返していながら、キリもみするように、どんどん落ち込んでいくのを感じていたのだ。
「それって、堂々巡りとは言わないのでは?」
 と思ったが、気が付けば、また同じ場所に戻っていた。
 要するに、まるで夢を見ているかのような感覚と同じであった。
 生き埋めと緊急避難では、根本的に違っている。それは、生き埋めは事故の場合もあるが、基本的に小説の中では、誰かによって仕組まれたものであること、しかし緊急避難は、事故によるもので、予測不可能だったことから起こったものであることである。
 緊急避難というのは、法律的には、人を殺したとしても、罪に問われないものだ。それは正当防衛と同じで、その事由が証明されれば、無罪になる。人を殺さないと自分が死んでしまうという状況が、極限状態の中で発生するという事由を証明できるかどうかがカギである。
 中には、昔の話であるが、緊急避難において、人肉を食らったという話も残っていて、それを映画にした作品もあったようだ。
 人間としての道徳と、それに伴う尊厳と、さらに生きようとする貪欲さが絡み合うことで起こってしまった悲劇。これも緊急避難と言えるのだろうか。
 あいりは、記憶喪失も一種の緊急避難なのではないかと思っている。実際の緊急避難という意味ではなく、言葉上の「緊急避難」。つまり、
「何か苦しい時に逃れるための場所を、自分の中で作っておく」
 という意味での緊急避難である。
 記憶を失ったというのは、果たして本当にウソではないと証明できるものなのだろうか?
 実際にはハッキリとしないだろう。ウソだという根拠もないのだから、記憶喪失だと医者が判断すれば、それは記憶喪失に違いない。
 その中の一つに、苦しい時に逃れる場所が精神的にあり、それが医者の診断の中で垣間見ることができているのかも知れない。医者でないのでハッキリしたことは言えないが、何かの事件で証人となった場合、どこまで証拠能力として信憑性のあるものなのか、何かの基準があるのかも知れない。
 記憶や意識が喪失し、まるで大海原に放り出されたような感覚になったのが、記憶喪失だとすると、大海原を目の前にした時、孤独感に苛まれるのであろうか。記憶を失っているということは、最初から孤独だったということでもあり、却って、まわりが何かをいうと警戒してしまい、人を遠ざけるだろう。
 それは本能によるものである。潜在意識と言ってもいいだろう。今までの記憶も意識もリセットされているのだから、誰を見てもその人は初対面のはずである。だから、警戒しないという場合があるとすれば、本能までもがマヒしているということになる。
「本能までマヒした人間など、存在するのだろうか?」
 道を歩いていて、赤信号なら止まり、青信号であれば進んでいいなどという感覚は本能が覚えているものであろう。
 その本能がマヒしてしまえば、もう一人で生きることはできなくなってしまう。本能という感覚がマヒしてしまうと、もう人間ではない。もし、そうなると、身体を動かすこともままならないのではないだろうか。いわゆる「植物状態」である。
 それはあくまでも極端な発想であるが、記憶を失ってしまうということは、本能をも失わなかったことをよかったと思うべきなのか、それとも、本能を失うということが、間接的な「死」を意味するという解釈になってしまうのであろうか。
 ただ、実際の緊急避難には、他に何人かいて、その人に対して危害を加えることを違法性を阻害していると見るものである。
 記憶喪失の中の緊急避難は、どこに行くというのだろう? 孤独の中の海を渡り、辿り着いたところがまた無人島だったりする。どこまで行っても、記憶喪失の中では自分一人で孤独なものではないだろうか。
 そんな中、まわりの人たちによって新たな意識や記憶が作られようとしている。しかし、それは緊急避難してきた本人の意識しないところで行われている。別の人格が形成されていると考えると、もし、記憶がどこかで戻れば、それまで蓄積された記憶を失ってからの人格も意識も記憶もすべてがリセットさせるのではないだろうか。
 そもそも、記憶を格納している部分は、元々の身体の持ち主である「本人」の場所である。
 一度記憶を失ってしまったからと言って、その後に新たに作られた人格を格納するスペースなどあるのだろうか?
「いや、待てよ?」
 そこまで考えてくると、一つ気になることがあった。
「人の脳というのは、十パーセントも使っておらず、まだまだ未知の力が潜んでいる」
 と言われているが、使われていない残りの九十パーセントの一部を使えば、記憶喪失だった時期の意識や記憶うや、人格すら格納できるのではないだろうか。
 そう思うと、多重人格と呼ばれている人は、ひょっとすると、まわりにも、いや自分自身にも分からないところで記憶を失っていて、それが自動的に回復する時、その途中に存在していた意識などを別に格納している場所があるのだとすれば、多重人格という考えもなまじ証明できないものでもない。
 また、デジャブという現象にしても同じではないだろうか?
 今までに見たことも聴いたこともないことのはずなのに、以前にも経験をしたことがあるような……、という発想。これこそ、自分の脳の中の無意識に形成された記憶を失っていた時期に作られた人格や記憶がよみがえってきたのだとすれば、それは説明のつかないことではないと言えるかも知れない。
作品名:呪縛の緊急避難 作家名:森本晃次