呪縛の緊急避難
つまり、無意識の中での意識が見せるものだという、これも分かりにくい理屈であるが、自然な感覚、つまり、
「意識をする必要のない自分の中に備わっている能力」
と言えるのではないだろうか。
心臓の動きであっても、意識することなく絶えず動いている。止まってしまうと死んでしまうということは、知らないことだったが、学校で習った。だが、実際には自分の身体のことなのだ。知っていて当然だ。だから、どうして心臓が止まると死んでしまうのかなどという素朴な疑問が湧いてくる余地がないのだ。
それを、
「無意識の中の意識」
と呼ぶのではないだろうか。
夢というのは、怖い夢ほど忘れるものではない、そう思って思い出してみると、楽しかった夢は実際に覚えていることはない。
――夢って怖い夢しか見ないのかしら?
と思ったこともあったが。そう思っていると、それ以降、怖い夢も見た記憶がった。
だが、覚えている部分は一部分だけで、しかも、ちょうどいいところで切れている。まるでドラマで、肝心なところで、
「また来週」
と言われたようなものだ。
ドラマであれば、来週になれば、その続きを見ることができるが、夢は二度と見ることができない。なぜなら、一度は見ているからだ。そう思うと、夢というものが、決して見る人に都合よく見ているわけではなく、むしろ都合の悪いようにしか見せていないように思う。
「夢の中なんだから、なんだってできるんじゃないか?」
と思ったことがあるが、それは間違いだった。
夢を見ている時、油断は決して感じることのない、
「これは夢なんだ」
と思った時があった。
その時、
「どうせ夢なのだから、空だって飛べるはずだ」
と思い、空を飛ぶシチュエーションに持って行ったが、さすがに夢であっても、高いところから飛び降りるのは怖いので、痴情から飛び上がろうと試みた。
すると、宙に浮くことはできたのだが、そこから先は思うように進まない。まるで空間という水中に身体が漂っているというだけで、平泳ぎのように漕ぐことで、気持ち進むことができるだけだった。浮いている場所も、人間の腰くらいの高さで、それ以上高くも低くもならない。どうやら、この状況は、
「宙に浮く」
という感覚を普段意識した場合の現象であった。
空を飛ぶことはできないが、宙に浮くことはできるという中途半端な状況に、やはり夢は自分の都合のいいようには動いてくれないが、あくまでも、それは自分の意識の中の限界までは挑戦しようとはしているように思えた。
そんなことを考えていると、ふと思ったのは、
――記憶を失った真美は。夢を見るのだろうか?
という思いであった。
記憶を失ったからと言って、潜在意識がなくなったわけではない。潜在意識というのはどちらかというと本能に近いものを感じる。記憶喪失者でも、本能は残っているのだから、本能が見せるのが夢であるならば、夢は見るものだと考えるのが普通であろう。
だが、意識を保持している人間が夢を見る時、意識の範囲外で夢を見ることはできないのだとすれば、記憶という意識を失った人間は、その範囲内でしか夢を見れないのだとすれば、
「夢を見ることは不可能だ」
ということになるのではないだろうか。
そもそも真美は記憶を失ったのであって、意識を失ったわけではない、ここの意識というのは、気絶するという意識ではなく、
「記憶に対しての意識、つまり、潜在意識に対しての意識」
として考えてほしい。
あいりが考えている意識と記憶の違いというのは、
「まず、何かをする時に考えて行動するのが意識であって、その瞬間を現在として考えるものだ。しかし、未来が現在になり、すぐに過去になる。現在というものは一瞬で、すぐに過去になるように、現在を意識とするなら、記憶は過去のものとなる、つまり、現在に意識したものが過去になり記憶になると考えると、『果たして記憶と意識は違うものなのか?』と考えると、その結論は難しいだろう。意識の延長を記憶だと考え、記憶は蓄積されるものだと思うと、似ているように思うが、意識にはない蓄積が入ってきた時点で、意識とは違うものだという認識も出来上がってくる。考え方はいろいろあるが、あまり二つを意識して考えたことのなかった時は、記憶と意識はそれほど変わりのないものと思っていたが、その二つを並べて改めて考えてみると、この二つには蓄積という意味で、違うものだと考えるようになってきたのだ」
と、いう論理的な発想を思い浮かべるのだった。
その感覚が夢というものに発展したのだとすれば、夢を見るための潜在意識は、記憶というものを結び付いていると考えられないだろうか。意識と潜在意識がある意味正反対であり、記憶と潜在意識が近いものだと考えるなら、記憶と意識というものも、実は正反対のものだというのは、飛躍しすぎた考え方であろうか?
しかし、この三段論法にはかなりの説得力を感じるが、それは常人にバカにされそうな大それた発想でもあったりする。
あいりが書くミステリーやオカルト系の話には、夢をモチーフにしたものも多かった。夢というのは、寝て見るものもあれば、起きてから見る夢もある。起きてから見る夢というのは、追いかけるもので、達成を目標とするものであり、寝ている間に見る夢とは違う。また達成を目標いしない夢も中にはある。ただ、これをあいりは夢だとは思わない。例えば、宝くじに当たったり、ギャンブルで大穴を当てたりするという、いわゆる「他力本願」によるものだ。
あいりは、他力本願で達成される夢と目標を立てて、それを達成するするために努力するものとを同じ土俵にすることを特に毛嫌いした。その発想が小説を書く上で、派生的に少し屈折のある感覚として芽生えているようだ。
フィクションは書くが、ノンフィクションは書かないというのもその一つであり、ノンフィクションのように、最初からストーリーが決まっているものを、ただ表現するだけのものを小説として自分では認められないとまで思っていた。
「そんなものっはただの作文じゃないか」
という発想である。
ただ、あいりの中でもすべてはフィクションでなければいけないというわけではない。大まかなストーリーはフィクションでなければいけないと思うが、細かなところは、経験によるものを書いてもいいのだと思っている。逆に小説というものを。
「自分の経験したことを膨らませることしかできない」
と思っていた。
これは、
「夢というものが、潜在意識、つまり本能の中にしか存在しえない」
という感覚に似ている。
いくら、
「フィクションを書きたい」
と言っても、経験していないことや。想像の域を超えるようなものは、どんなにあがいても描くことはできないのだ。
もし、それができるとすれば、相当な理論に基づいた小説であり、誰をも納得させられる理論の元に、自分の作り出した世界を証明できなければ無理なことであろう。
それは、平行線がどこかの一点で交わるかのような矛盾に満ちているような気gする。そして潜在意識と意識、そして記憶がどこかで融合しなければいけないのではないかとも思った。