呪縛の緊急避難
口ではポジティブなことをいうかも知れないが、実際に皆そうであろうか。小説を書くのも、他の芸術的な趣味であっても、またそれ以外のスポーツなどであっても、同じなのではないだろうか。
「何かから逃げたい」
という逃避行が趣味にその人を駆り立てるという場合も無きにしも非ずである。
そういう意味では真美の似顔絵というのも同じなのかも知れない。
「似顔絵を描いていると、嫌なことを忘れられる」
という思いである。
ただ、忘れられると言っても、それは一過性のものであり、完全に忘れられるわけではない。それでも趣味に没頭するというのは、何かに集中するということの素晴らしさを実感しているからだと、あいりは感じていた。
小説を書いていると、時間の感覚がマヒしてくる。その世界に没頭し、書いていることが自分の人生そのものに思えてくる。しかも完成した時の充実感たるや、味わったものでなければ分からない。
「他の人ができないことを、自分だけができるんだ」
という思い、他の人という範囲が自分のまわりという限定的なものでも構わない。限定的な範囲であるからこそ、余計に自分にリアルさとして返ってくるのであろう。
確かに嫌なことを忘れられるというだけではないような気が次第にしてくる。
書き上げた時の充実感、さらに誰かの目に触れて、評価されるかも知れない。あるいは、評判になって、プロデビューなどという、大それたことを考えたりもする。
しかし、考えるだけならタダなのだ。誰に咎められることもない。人に話せば、
「何をバカなことを」
と言われるかも知れないが、一人で抱え込んでいる分には、誰から非難されることもバカにされることもない。
あいりは、小学生の頃から、国語は嫌いだった。特にテストなどでは、どうしても例題の文章をまともに読まずに回答を焦ってしまうくせがあった。そのため、文章を理解できずに回答するため、トンチンカンな回答になり、国語の成績はいつも最悪だった。
中学に入ると、本を読むのが好きになっていったのだが、それでも最初はどうしても端折ってしまうくせが抜けていないため、セリフばかりを読んでしまうというおかしな読書法になっていた。
そんな人間に小説など書けるはずがない。それでも小説を書きたいと思うのだから、本というものの魔力はすごいもので、あいりはその魔力にすっかり充てられてしまったのだろう。
小説を読むと、情景が頭に浮かんでくる。そんな書き方ができれば、今のところはそれだけでよかった。確かに、
「小説家になってプロデビューしたい」
などという大それた考えもあったのだが、それはまだまだ先のこと、夢というのは段階を持って突き詰めていく方が、楽しめると思っていた。
一気に上り詰めてしまうと、後は現状維持に甘んじるか、落ちていくだけである。上り詰めたこともないくせに、何を言っているのかと思うのだが、小学生の頃にあれだけ端折っていた自分が、本を読んだり小説を書くようになると、次第に端折ることもなくなってきた。
これは意識しているわけではなく、無意識のことであった。やはり無意識に潜在している意識というのは、その人をいい方に導くのではないかと思ってもいいようだった。
だが、本屋で売っている、
「小説の書き方」
であったり、ネットなどにも載っているハウツーものには、当たり前のことを当たり前にしか書いていない。
ハウツー本というものが、そういうものであると分かっていなかったあいりは、読んでいると、どこか違う世界に連れていかれそうで気になってしまった。
だが、アイデアは結構いろいろと生まれていた。メモ帳を絶えず携帯していて、気になったことがあれば、それをしたためておく。それが小説を書く姿勢なのではないかと思った。
ハウツーものをよく親は勧めていた。いわゆる、
「自己啓発」
と呼ばれるもので、何か一つに特化したことではなく、
「人が生きていくうえで何が大切なのか」
などという、お堅い本である。
あいりはそんな本を読むのが大嫌いだった。
「虫唾が走るとはこういうことを言うんだ」
と思うくらいだった。
書いてあることは、どんな本も同じ、政治家の偉い先生が、官僚の書いた原稿を棒読みしているような感覚だ。
つまり、本当に分かっているのか、自分でもよく分からない。分かっているつもりになっているだけでは、読むだけ無駄である。無駄なだけならまだいいが、分からないことを分かったつもりになっていると、まわりに対して、
「自分は分かっているんだぞ」
という態度を取ってしまうだろう。
そんな態度を取ると、相手の感情を逆なでしてしまいかねない。それを分かっていないだけに、
「自分のことは棚に上げて」
などと言われてしまうのだ。
どこか高飛車になってしまうのは、自己啓発本が、どうしても上から目線だからではないだろうか。どの本を見ても似たようなことしか書いていないくせに、自分だけが先生であるかのような態度に対して、どうして読んでいる人は違和感を抱かないのだろう。だから、自己啓発本を読んでいる人が他人に注意や指導をする時は、どうしても上から目線になってしまう。そんな相手に誰が従うというのは、もし従うとすれば、同じ宗派の宗教団体であったり、政治団体などの、胡散臭い団体くらいのものである。
だから、宗教団体などは、マインドコントロールなどと言われて、世間から隔絶した世界に入り込み、挙句の果てに、テロ集団と化してしまわないとも限らないだろう。
古今東西の歴史を見ると、それは証明されているようで、あいりは、そういう意味でも絶対に自己啓発などには乗らないと思っていた。
それは、自分のまわりの人は皆同じで、同じ考えを持った人が集まるというのも当たり前のことであって、それを、
「世間の皆は同じような考えなのだ」
と考えると、またロクでもない方向に考えが向かっているようで、少し怖くもあった。
あいりは小説を書いている時、いつも自分の世界を作っている。集中するということと自分の世界を作るということは別物であることから、自分の世界を作り終わるまでは、集中できないとも思うようになっていた。
小説を書いていると、前にも書いたと思うが。一度我に返ってしまうと、それまで書いていた内容をほとんど忘れていることがほとんどだった。
最初は自分が、
「健忘症になったのではないだろうか?」
と思ったほどだったが、自分の世界を作って、その中で集中するのだから、それも当然と言えば当然のことであろう。
我に帰ると、現実という他の人との共有の世界に戻される。そこは決して自分の意識で思うようになるところではない。自分の世界というのは、実際に自分の考えている通りになるところであり、まるで夢を見ているかのような感覚になるのだろう。
だが、夢というのは、本当に自分の思い通りになる世界なのだろうか。
「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」
とよく言われるが、では潜在意識とはいったい何なのだろうか?
「潜在というのは、無意識のことである」
と本には書いてあった。