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短編集96(過去作品)

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 といって玄関まで出てきた母親の手にはバスタオルが握られていたが、それだけでは到底追いつかない。急いでお風呂に飛び込みたかった。ちょうどお風呂も沸いていたので、そのまま服を脱いでバスタブに飛び込んだ。
 暖かさが身体に戻ってきた。これほど身体が冷え切っていたとは思っていなかっただけに、自分でもびっくりだ。ゆっくりと湯船に浸かっていると、
――待てよ――
 と冷静に考える余裕が戻ってきた。
 さすが母親、自分が思っていたよりもかなり気がつく人であることに感心していた。バスタオルを握って現れるところや、すでにお風呂が沸いていたことなどは、母親が気を利かせてくれていたに違いない。
――自分のことのように娘を考えていないとここまでの気は回らないだろう――
 湯船にゆっくり浸かりながら藍子は考えていた。
 その時はすでに犬の存在を忘れていた。さっきまでの冷え切った身体の自分がまるで別人だったように思えるからだ。お風呂に入って自分を取り戻した藍子は、いつもより長い入浴時間に、少し頭がぼやけてくることを感じていた。すっかり記憶に自信がなくなっていたに違いない。
 風呂から上がって表がまだ豪雨なのを見ると、
――よくこんな状態で帰ってきたわ――
 と今さらながら感心していた。
――本当にこれを帰ってきたのかしら――
 と感じるほどで、しばし、濡れた髪をドライヤーで乾かしながら窓の外の豪雨を見つめていた。その時にはすでに犬の存在は意識から飛んでいた。
 髪が乾いてくるにしたがって、普段の藍子に戻ってきた。玄関先に行ってみると、そこにはまだ母親がいるのを見るとビックリしてしまった。なんと、そこには表で自分の後ろからずっとついてきた犬がいたではないか。
 犬の姿を見てすぐにそれが自分を追いかけてきた犬だということが分からなかったくらい、表から帰ってからの精神状態は違っている。開放感と清潔感がすべてをぼやけたものにしてしまったように思えるからだ。よく見ると母親が汚れた犬をボロ布で拭いてあげている。そう簡単には綺麗になるはずもないのを分かっているはずなのに、それでも必死に吹いてあげている母親の姿など、今までに想像したこともなかった。
――お母さん、やめて――
 母親に対して出掛かった言葉を必死に止めた。威厳のある母親にそんなことをしてほしくないと思う心が呟いたのだが、その反面、見たこともない哀れみの表情をもっと見ていたいという気持ちがなかったわけでもない。藍子は、その場に立ち竦むしかなかったのだった。
 それから母親に対しての見方が変わった。自分の性格も変わってきたのも、そんな母親の優しさを垣間見たからかも知れない。いつも威厳のある母親に怯えていた家にいる時の藍子の顔色は明るくなってきた。
――母親の魅力ってやっぱり包容力よね――
 と感じたのは、犬と一緒にいる時の表情を見ているからである。そこには懐かしさがあった。藍子がまだ赤ん坊の頃に母親の腕に抱かれていた時に見た表情がそこにあるのだ。ほとんど忘れているはずなのに、犬を見つめる表情でまた思い出すことができる。まさに犬がうちにやってきたのは、藍子にとっては願ったり叶ったりであった。
 元々犬が嫌いではなかったが、犬好きというわけでもなかった藍子が犬好きになったのはその時からだった。犬好きな人に、
「いつから犬を好きになったの?」
 と聞いてハッキリ応えられる人も珍しいだろう。
「生まれつきかしらね」
 という答えが一番多いかも知れない。藍子の場合はハッキリ答えることができるだけに犬好きになったことでの精神的な変化もしっかりと分かっているつもりだった。
 犬と猫を比較すると、家につく猫と、人につく犬とでは断然犬の方が好きだった。学校の友達に言わせると、猫が好きな友達も多く、猫派と犬派に完全に分かれていた。どちらも飼っている友達もいて、
「うちは猫の方が強くて、犬を守ってあげているって感じだね」
 と言って笑っていた。普通なら逆ではないだろうか。そのあたりが、猫という動物のもっている威厳のようなものが表に出てくるのかも知れない。
 とは言え、藍子の家は完全な犬派だった。犬好きになったきっかけは母親を見てからかも知れないが、実際は生まれつきかも知れない。母親が犬を可愛がる姿を見ていて嫉妬していたにもかかわらず、自分も犬を可愛がっている。
 藍子に着いてきた犬はオス犬で、それだけに女性になつくのは習性のようなものだろうか、藍子には姉がいるが、犬がなつくのは、母親と姉と藍子にだけである、父親が仕事から帰ってくると、嬉しがって玄関先まで迎えに行くが、頭を二、三度撫でられると安心してか、後は部屋の中に戻ってくる。
 犬はそれほど大きくなく、雑種であるが、部屋の中で飼えるほどの小さな犬だった。テリアの血が多く混ざっているのだろう。毛並みは悪くなく、目が合うと潤んでいるように見えるところが一番可愛らしく感じるところだった。
 藍子にとって犬は家族同然、最初の頃は部屋の中で一緒に寝たりもしていたが、さすがに中学に入ると、自分だけの部屋を持つことで犬を部屋に入れることもなくなった。
 思春期になると藍子は自分の身体が大人になっていくのをヒシヒシと感じるようになっていた。それに伴って精神的にも変わっていくはずなのだが、身体の成長に精神状態が追いつかない。
――一人になりたい――
 と感じることが多くなり、人と一緒にいる時が時々無性に煩わしくなる。
 三つ上の姉を見てきていたので、姉も同じように思春期の入り口はいつも一人で考えていることが多かった。子供の藍子には理解できなかったが、中学になると何となく分かってくる。
 いつも何かに怯えているような気持ちになるのは、男性を意識してしまうからというのもある。そして、自分が大人に変わっていくのを成長だと分かっているのに、成長が身体に集中していて、精神的に追いついていないことが、情緒不安定を呼ぶ。
 特に月に一度の辛さは、男性には分かるはずはないと思っているだけに、男性の顔を見ていると、厭らしさを感じてしまう。
――女性を好奇の目で見ている――
 口元が歪んだ時など、厭らしさを一番感じ、嘔吐を催してしまいそうになる。そんな表情を忘れることができず、家に帰っても悶々とした気持ちになって、部屋に閉じこもっていることが多かった。母親も分かっているのだろう。余計なことを聞いてこない。藍子自身、数年前の姉の姿を見ていなければもっと酷い自己嫌悪に陥っていたに違いない。
 それでも自己嫌悪はずっと付きまとっていた。小学生の頃から目立たず、いつも一人でいることの多かった藍子は、中学に入っても同じような感じである。
 犬の相手をしていなかった自分に対して自己嫌悪も感じる。
 家に帰ってくると、いつものように犬が飛び出してくるが、その表情は哀れみに満ちている。
――どうしてそんな顔をするの――
 いつものように嬉しそうな顔をされても辛いのは変わらないが、少なくとも自己嫌悪に陥ることはないはずだ。犬は猫と違って、思っていることがすぐに顔に出る。猫と一緒に飼っていると、猫の方が強いというのが分かってくるようだ。
 友達から一度言われたことがある。
作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次