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短編集96(過去作品)

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「藍子は、家で犬を飼っているでしょう?」
「ええ、飼っているわよ」
「それも雑種よね?」
「ええ、どうして分かるの?」
「犬って飼い主に似てくるって言われるのよ。それは血統書のついているような犬ね。でも、逆に雑種だと、犬が人間に似てくるんじゃなくって、人間が犬に似てくるの。藍子を見ていると、いかにも家で犬を飼っているって分かるもの。だからきっと飼っているなら雑種だと思ったのよ」
「そんなものなのかな」
 と曖昧に答えた。その時、話を半分くらいの気持ちでしか聞いていなかった。犬が飼い主に似てくるという話は聞いたことはある。そういえば藍子の家で飼い始めた犬は、家の誰にも似てきたようには思えなかった。
 その犬も藍子が中学二年生に上がる頃に死んでしまった。表に勢いよく飛び出していったのだが、走ってきた車に轢かれたのだ。いきなり飛び出したのは犬だったので、車の運転手にはまるっきり非はなく、それこそ犬死だった。
 藍子はその瞬間を見た。さすがに近くまでいく勇気はなかったが、毛の生えた肉の塊が赤く染まった道に横たわっている。その光景はまるで他人事にしか見えなかった。それでも数日はその光景が頭の奥に残っていたようで、あまり食欲はなかったのを覚えている。
 家にいたのは三年くらいだっただろうか。藍子についてきた犬、その時の顔を藍子はしばらく忘れられなかった。家で飼われていた三年間、犬は母親になついていて、母親を見ていれば、犬の気持ちが分かるくらいだった。きっと犬が死んで一番悲しんだのは母だったに違いない。
 最初の犬が死んで二週間経ってからのことだった。父が犬を買ってきた。
「どうしたの?」
 母親があきれた顔で聞いていたが、
「お前たちが寂しいだろうと思ってね。そろそろ前の犬が死んだ悲しみから解放されただろうと思って、思い切って買ってきたんだよ」
 笑顔で話している。その顔に無神経さはなく、優しさに満ちていた。藍子がそんな父の顔を見たのは久しぶりである。どちらかというと女性の多い家族で、父親の存在は薄かったからだ。
 母も姉もキョトンとしている。
――何があったの――
 というような表情をしている。
「おいおい、どうしたんだい? お父さんだって、家族のことを考えているんだぞ」
 とニコニコしているが、確かに父が犬を買ってくるタイミングはよかった。そろそろ前の犬に対する情が薄れ掛けていて、寂しさを感じる時期だったからである。もし、犬が病死だったらもっと時間が掛かっただろう。目の前での轢死は残酷な光景を瞼の裏に焼き付けたが、即死だったことは却ってよかったのかも知れない。
「苦しまずにいけたんだから、まだよかったわね」
 庭に質素ながら墓を作って埋めてあげる時に母親が呟いていた。後ろに立って姉と藍子は手を合わせていたが、その時の心境はきっと二人とも母と同じだっただろう。ひょっとして初めて家族三人の気持ちが一つになった時だったのかも知れない。
 父が買ってきてくれた犬も部屋で飼うような愛玩犬だった。種類はマルチーズで、白い毛並みが美しい。
 まだ子供で、しっかり走り回ることもできず、時々壁にぶつかって、
「クゥン」
 と小さな声を上げていたが、何ともいじらしく可愛らしい。すっかり家の中で人気者になっていた。
 その頃には藍子も思春期の憂鬱さから少しずつ抜けてきた頃で、精神的なものが身体の成長に追いついてきたに違いない。前に飼っていた犬の死が、もし藍子の成長に影響しているとすれば皮肉なものだ。
――まったくないとは言えないかも知れないわ――
 却ってそう考える方が犬のためだと思った。何しろ前の犬は、藍子についてこの家にやってきたのだから……。
 今度の犬はやたらと鳴く犬だった。キャンキャンうるさく鳴くもので、近所から文句を言われたこともあった。
「すみません、気をつけます」
 と言っても、まだ子供、鳴くのは仕方のないことだった。
 最初は部屋の中で飼っていたが、あまり物覚えのいい犬ではなかった。小さい犬を買ってきた理由として、
「小さい頃からしっかり躾けられるからね。最初は大変かも知れないが、頑張るんだぞ」
 と父親が話していたとおり、しっかり躾けられるという気持ちがあったからだ。だが、その思惑はうまく行かないかも知れない。大きくなるにつれて少しずつ落ち着いては来たが、それでもまだまだだった。血統書がついているという意識、そして、どうしても最初に飼っていた犬と比較してしまうのである。
 新しく飼われた犬は、メス犬だった。オスで雑種だった犬にはさすがに力強さを感じたが、今度の犬には力強さよりも甘えが先に見えてしまい、顔を見ているといつも何かを訴えるような目をしていた。
 却ってそんな犬の方が可愛いものだ。放っておいてもよかったくらいの前の犬に比べ、
――いつも気にしていたような気がする――
 と感じるほど、弱々しく見えたものだ。
 弱い犬ほどよく吠えるというが、まさしくその通り。散歩につれていって、他の犬が近くを通ろうものなら、必ず吠えていた。それも自分よりも大きな犬には遠慮がちに、小さな犬には声も枯れんばかりの大きな声だったことは、見ているだけで、犬の世界を想像することができた。
――犬の世界だけじゃないのかも知れないわ――
 犬の散歩を頻繁にしていたのは、藍子が高校に入ってすぐくらいの頃だった。中高一貫教育の学校であったが、中学生の頃は精神的に落ち着いていなかったのか、高校に入学した途端、不思議と精神的に落ち着いてきた。別に何があったというわけではないのだが、しいて言えば異性に興味を持ち始めた時期と重なっているくらいだろうか。
 藍子の学校は男女共学だったが、中学時代、男子生徒をまともに見ることができなかった。
 何かいやらしい視線を浴びているように思え、嫌悪感しか湧いてこない。ニキビだらけの顔はいつもニヤニヤしていて、いやらしさというよりも気持ち悪さに近かった。
 男子生徒と目が合うと、思わず睨み返してしまう。そんな藍子に対して彼らはニヤニヤ笑っているだけだ。却ってそれが気持ち悪さを増幅させ、男というものがまったく違う動物に思えてきたのだった。
 女友達から聞かされる彼氏の話は、男には包容力というものがあり、いつでも頼れるという気持ちだった。
「ついつい甘えたくなる私の気持ちを分かっていて、すべてを受け止めてくれるって感じなのよ」
 と話していた。
 藍子が露骨に嫌悪感をあらわにすると、
「どうしたのよ。あなたも彼氏ができれば分かるわよ」
 友達は藍子が男性に嫌悪感を持っていることは知っているが、それがどれほどのものかは分からないだろう。友達も彼氏ができる少し前まで、
「男って下品でいつもにやけているから嫌よね」
 と、藍子と同じようなことを感じていたはずだった。それが急に彼氏ができたといってはしゃいでいるのを見ると、裏切られたような気になってしまう。
 中学時代は、ずっとそうだった。自分が成長期であることも影響していただろう。男性との違いを感じながら、女性にしかない苦しみを理不尽だと思ってみたこともあった。そんな女性に対しての男性の好奇の目、許せるものではない。
作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次