短編集96(過去作品)
犬
犬
あれは雨の強い日だった。まだ小学生だった藍子が学校の帰り道、バスから降りて家へと急いでいた。足元はすでに池のようになっていて、打ち付ける雨で、足元から湯気が立っているのではないかと思えるほどだった。あたりはみるみる真っ暗になっていった。バスの窓から見えるはずの景色が見れるわけでもなく、中の景色が反射して見えるだけだった。
学校までバスに乗って通うというのは、小学生では珍しかったが、母親の教育熱心が嵩じて私立の小学校に通うようになった。私立の小学校というと制服もあったり、バス通学などできて、公立小学校に通っていた同級生たちから羨ましがられたものだった。
藍子も母親の期待には応えていた。一生懸命に勉強し、成績もよかった。母親から見れば自慢の娘だったに違いない。
ただ、母親は娘に対しての期待をすぐに他人に話してしまうくせがあった。しかも娘がその期待に文句なく応えているだけに始末が悪い。次第に娘の自慢となり、しかも自分のいる前で自慢されるので、どういう表情をしていいか分からず、まともに相手の顔を見ることができない。
あまり学校でも友達と話をする方ではない藍子が目立たない性格なのは当たり前だった。しかも母親を見ていると、母親の知り合いともまともに顔を合わせられない。その思いが強いので学校でも人と話せないのだろう。自分から話しかけない限り相手からは話をしてくれるはずのないことを一番知っているのは藍子なのかも知れない。
だが孤独に感じることはなかった。意外と楽天的な性格であることは、自分でも分かっていたし、友達と騒いだりすることの意味を考えると、
――一人でいる方が気は楽だ――
とアッサリしたものだ。
私立の小学校に通う生徒は皆入学試験を突破して入ってきた連中である。少なからずの競争心を持っていて、自分は他の人とは違うという意識も強い。競争心は、きっと持って生まれたものに違いない。
藍子も学校では自分だけの世界を作っていた。うっかり自分の本心を明かそうなどすれば、途端にまわりから変な目で見られるような気がして嫌だった。それだけ自分の世界を確立した人の多い世界である。学校では緊張の連続だった。
家に帰っても同じだった。何しろ母親の考えから始まったことなので、母親を見ているだけでいやが上にも緊張が高まってくる。言葉にするわけではなくとも、目で訴えているのをヒシヒシと感じるからだ。近所の人に自慢している時だけは苦笑いになるが、それ以外はほとんど家で表情を変えることはなかった。
雨の強かったその日、風も強く、何とか傘で身体を隠すように歩いていたので、最初は気付かなかったが、後ろから一匹の犬がついてくるのを感じた。見るからに雑種の、どこにでもいるような野良犬だった。乾いていればフサフサとしている毛並みが雨に打たれてしなだれている。
強い雨に頭をまともに上げることのできない犬は、ゆっくりとした歩みで、フラフラしながらも藍子から遅れないようについてきていた。藍子が気付いて歩みを止めれば犬も立ち止まる。後ろを振り向いた瞬間、
――助かった――
とでも言いたげな安堵の表情に見えたのは、藍子の気のせいだろうか。
「クゥン」
何とも力のない鳴き声に、藍子は哀愁しか湧いてこない。そして、まるで自分を見ているような気がしたのはなぜだろう。今まで自分に対して貧相なイメージを思い浮かべたことなど一度もないはずだ。いつも緊張の連続ではあるが、
――自分は他の人とは違うんだ――
という自負と、優越感に浸っていたはずだった。
少なくとも今目の前にしている犬とは全然違う生活をしている。父親は公務員で、生活も安定している。一戸建てに住み、母親の教育方針とはいえ、私立の小学校に通わせてもらっているのだから、貧相な雰囲気とは程遠いはずだ。だが、犬に見つめられるとついつい微笑み返してしまう。
本当は無視しなければいけない。甘い顔を見せるとどこまでもついてくるだろう。踵を返して歩き始めても後ろには一定の距離を保ったまま歩いてくる犬の気配を感じるのだ。雨が強くて他に行くところはないのは分かっている。
何度も後ろを振り返る。犬はそのたびに立ち止まり、藍子を見上げては、切ない声で甘えている。その声の切なさは聞くほどに藍子の心を締め付けていって、もう犬の存在を無視することなどできなくなっていた。
「ついてきても、うちではどうしようもないのよ」
何とか言い聞かせるが、この光景、一度テレビで見たことがあった。その時の主人公も同じように小学生の女の子で、同じような雨の日の出来事だった。違っているとすればその女の子の家は貧しい家の女の子だったということだけだろうか。その時の表情が哀れみに満ちていて、とてもテレビドラマで子役が演じているとは思えないほどリアルだったのを覚えている。いずれ自分が同じような気持ちに陥ることを予感していたからだと思うのは、今となってから感じるからに違いない。
その時の藍子の表情。手に取るように分かった。テレビドラマの主人公とダブってしまうからだ。どんなに哀れみに満ちた表情をしていることだろう。
実はその時の女の子の何とも言えない哀れみに満ちた表情、藍子は好きではない。できれば見たくなかったと思っているほどだった。犬に対して呟いたセリフも当然言いたくないセリフだった。にもかかわらず勝手に口から出てきたのだ。まさしく無意識の言葉、今までにそんな言葉を一度も発したことなどなかったはずである。
ついてくる犬を何とか追い払いたかったが、どうしてもできない。雨の強さのせいで、前はまともに見えない。走っていけばきっと犬は追いかけてくるだけの体力はないだろう。しかし、前が見えないだけに走り出してしまえば自分が危ない。走ってくる車になどぶつかってしまえば一巻の終わりであった。
仕方なく家まで着いてくる犬を追い払うことなく前を見て歩くしかなかった。家までがこれほど遠いものだとは考えたこともなく、特に前が見えないだけに、いつになったら家に着くか想像もつかない。
――今どのあたりを歩いているのだろう――
すでに家の近くまできているはずなのに、なかなかついてくれない。家の近くの公園を横切って見えてくるはずの家を感じているのだが、ここからが長かった。
家の前の明かりが見える。雨が降っていなくともそろそろ日が暮れる時間のはずだ。該当が薄っすらと灯り始め、雨のせいでボンヤリと明かりが浮かび上がっていた。
――テレビで見たロンドンの光景のようだ――
小学生の藍子にとって、情報源のテレビは貴重なものだった。いろいろ想像する光景のほとんどはテレビから仕入れるもので、いつも漠然としてしか見ていないはずのブラウン管の光景をこれほど覚えているものかと、自分でも不思議だった。
「ただいま」
家に入ると、自分がびしょ濡れになっているのに気付いた。傘を差していたがあれだけ横殴りの雨ではびしょ濡れになるのも仕方がないことだが、これほどまでとは思わなかった。
「おかえりなさい」
作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次