短編集96(過去作品)
キッチンに立っている順子の姿が浮かんでくる。エプロン姿の彼女が器用に野菜に包丁を使っているが、そんな光景を今までに思い浮かべたこともなかった。
涙が止まらない。次から次へと溢れてくる涙で、前が見えなくなってしまった。
――俺は何ということをしてしまったのだろう――
後悔はやがて涙に変わるということを忘れていた。
後悔などするはずなかった。悪いのはあの女なのだ。
先に気付いたのは小沢だった。何といっても彼女と一緒にいるのは彼である。ある日彼が一人で尋ねてきた時はさすがに友則もビックリした。
「あなたと順子が付き合っていたのは、彼女から聞いて知っていました」
順子はあまり隠し事のできるタイプでないことは分かっていた。友則とのことも隠し事をしたくない一心で話したのだろう。だが、小沢を見ているとそうでもないようだ。
「あなたとのことを話したのは、最初、順子が隠し事をできないタイプだからと思って、話を聞いた時に、許したんです。むしろよく話してくれたってね」
「それで?」
「だけどそれも彼女の計算だったんです。木を隠すなら森の中っていうじゃないですか。肝心なことを隠すには、他のことをさらけ出して、すべてを話したように見せかければ、カムフラージュできると思ったんでしょうね」
「でも、彼女はそんなに器用な女性じゃないですよ」
「そうなんですよ。だから私が事実を知っても彼女を許せると思うんですよ」
そう言って小沢は友則に立ち会ってくれることをお願いしたが、さすがにそれはできない。とりあえず、危なくなったら出て行って何とかその場を収めることで了承した。
だが、それも甘かった。
「そうよ、私は部長とお付き合いしていたわ。愛していたかですって? そんなの今さら分かるもんですか。いい? あなたは部長のお下がりで私と結婚したのよ。ありがたく思ってほしいわね。これで部長が会社にいる間、あなたは安定していられるの」
いささかヒステリックになっていた。きっと彼女も部長にすてられたことを一日も早く忘れたかったに違いない。それを蒸し返してしまったのだ。
だが、それを聞いた小沢は逆上してしまっていた。
それは一瞬だった。急に部屋が暗くなったかと思うと、小沢は彼女の馬乗りになって必死に首に手をかけている。最初は抵抗していた順子の声が断末魔から次第に糸を引くように消えていく。あとに残ったのは小沢の激しい息遣いだけだった。
止めようと思えば飛び出していけば何とかなっただろう。なぜその時に部屋が急に暗くなったか分からない。そこには永遠に動くことのない塊と、震えの止まらない男が一人佇んでいるだけである。
その時の小沢の心境を測り知ることができる。
「無性に人を殺したくなる瞬間があるんだ」
誰かが言っていたが、それが今だったんだ。実際に手を下さなくとも、自分がやったと同じ心境である。実に恐ろしい。
それからどのように始末したか覚えていないが、冷静だったのは友則だけだった。だが、友則はその時の心境を覚えてはいなかった。
――何もなかったんだ。後悔などしないさ――
その時飛び出せなかったことに後悔はなかった。彼女は所詮こうなる運命だったんだ。相手が誰であるかの違いだけだったに違いないと考えることで精神的な神経の高ぶりはなくなっていた。
それを今さら思い出していた。暗闇の中で蠢くものを見つけたのはその時である。
「順子、君はまだ生きていたんだね」
おもむろに塊に向って近づいていく。塊からは息遣いが聞こえ、吐息が漏れている。
いきなり後ろから羽交い絞めにされて首に圧迫を感じた。振り返ることができたが、そこにいるのはものすごい形相の小沢だった。
すでに抵抗する気力の失せた友則は最後の瞬間、笑みを浮かべる。首に掛かった力が一瞬ひるんだ。だが、次の瞬間からは友則に記憶はない。すべてが終わった瞬間だった。
翌日、死体が発見された。首を絞められた順子と友則である。死体は腐乱していて、異臭を放っていた。そして、ベランダの真下には、投身自殺をした小沢の死体が転がっていたが、その死体はまだ新しいものだった。
死体が発見された部屋、それは小沢と順子の新居だった……。
( 完 )
作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次