短編集96(過去作品)
玄関まで歩いていると、暖かさから汗を掻いていることに気付いた。汗の匂いがしてくるが、懐かしい匂いが混じっている。
――順子がつけていた香水の匂い――
ここに来る時に回想していた順子を抱いた時にも感じなかった香りを、今感じるのはなぜだろう。汗を掻いている身体から滲み出ているのは間違いないが、忘れていた香りである。甘酸っぱい香りに柑橘系の匂いが交じり合い、何ともいえない雰囲気が順子との間に存在していた。まるで宙に浮いたような恍惚の状態で感じていた匂いを、今さらではないだろうか。
部屋に入ってくる時には間違いなくしていなかった香りである。汗を掻いた身体から滲み出たと考えるほかない。
「君の奥さん……」
と口から出掛かってやめてしまった。男に香水の種類を聞いて分かるはずもない。下手に勘ぐられるのが関の山だ。
額から汗が流れ出る。さっきよりも暑さを感じ、まるで真夏の暑さを思い出すようだ。暖房が効きすぎているわけではない。話が終わって席を立ち、玄関に来るまでの実に短い時間に、異常なまでの汗を掻いてしまったのだ。
――香水の匂いもそれによる錯覚かも知れない――
逆に香水の持つ成分が空気を伝って身体への侵入を試みるが、それを受け付けないようにしようという抵抗が、異常な熱さを身体にもたらしているようだ。
――そういえば、玄関に鏡があったな――
入ってくる時に偶然見つけた鏡だった。いや、偶然というのは語弊がある。初めて来た人の家をあまりジロジロと観察するのはいけないことだと思いながらも、くせなので仕方がないと思って、ついつい観察眼を働かせてしまう。くせであっても、許されるくせと、許されないくせが存在するとすれば、紛れもなく許されるくせに違いない。当たり前のようにまわりを観察し、何気なく見つけたのが鏡だった。
――入り口に鏡があるというのも、社会人としての身だしなみで、出かける時の最終チェックに使おうという意志が現れているんだな――
と感心したものだった。
靴に足を通し、靴べらを滑り込ませ、勢いよく滑り込むのを感じながら靴べらを手に持って何気なく立ち上がると、そこには鏡が……。この家庭の朝の風景が思い浮かんでくる。
奥さんはきっと後ろで膝をつき、カバンを両手に持って、亭主が靴べらを渡すのを待っていることだろう。後ろを向くその時、おもむろに鏡に飛び込んでくる自分の顔を覗き込むのだ。
何とも時代遅れな発想だろうか、今そんな家庭がどれだけ存在しているか分からずに勝手な想像をしているが、何度か夢に見た光景でもあったのだ。
玄関先に座り込んで靴べらに足を通していると、まるで自分がこの家の主にでもなったかのような錯覚に陥った。そして後ろに膝をついてカバンを持っているのはまさしく順子であった。
――今さら順子のことなんて――
だが、順子と小沢であればありえる光景ではないだろうか。女性っぽい小沢は意外とスーツがよく似合う。痩せてはいるが、太っているよりもスーツが似合うのは、いわゆるサラリーマンという人種にスーツが似合った時代のイメージが、小沢の体型を想像するからである。
友則も自分ではスーツがよく似合っていると思うが、サラリーマンとしてではない。どこが似合っているかと聞かれれば返答に困ってしまうが、小沢の似合っているのとでは次元が違う。では、今想像している光景は友則と小沢、どちらが似合うだろう。今さら考え ることでもなかった。
靴に足を通し、靴べらを滑り込ませ、勢いよく滑り込むのを感じながら靴べらを手に持って何気なく立ち上がり、鏡を見た。
そこに写っていたのは確かに友則である。だが、一瞬だけ誰か違う人のように思えたのは気のせいだろうか? それは瞬きをする間のほんの一瞬、鏡に写った男の後ろは真っ暗で、白い煙が上がってくるようだった。白い煙と思ったのが間違いで、それが白髪だったことに気付いたのはそれからしばらく経ってからのことだった。
――目の錯覚に違いない――
と、ただ思い過ごせばそれだけのことなのだが、その時の友則はそんな心境ではなかった。
元々楽天的な性格である友則に、思い過ごしでは済まされないと思わせた正体は一体なんであろうか。
友達は友則の表情の変化には気付いていないようだ。
「またゆっくり遊びに来いよ」
「ああ、また寄らせてもらうよ」
とアッサリした会話に終わったが、友則からすれば、それだけ言うのがやっとだったのだ。
――部屋を出てからエレベーターまで、こんなに距離があったかな?
明かりも少し黄色掛かっているように感じるが気のせいだろうか? 友達の部屋が鮮やかな白色灯だったことも影響しているかも知れない。
来る時の方が遠く感じるのならまだしも帰る時の方が遠く感じるというのは、いささか道理に合わない。来る時は初めて見る光景なので慣れていないせいもあって遠くに感じるのだろうが、帰りは一度見ているから距離感が掴めているはずなので、近くに感じるはずである。
どこかで見たことのある光景だと、最初に感じたのであれば分かるのだが、そんな感じを受けた記憶はない。ただ、順子との新婚生活を夢見ていた頃を思い出していたとすれば分からなくもない。漠然とした感覚で夢見ていたので、マンションを見ると、その時に感じたイメージが無意識に浮かんでくるのかも知れない。
――確か、部屋からエレベーターまでは三つ扉があったはずだ――
最初に電話があった時、そのことは教えられていた。そして、エレベーターを降りて、間違いなく三つ目の部屋に入ったはずだった。だが、帰りに部屋の扉を開けて廊下に出た瞬間、分からなくなったのだ。
エレベーターまでの距離を遠く感じた瞬間だった。そして、黄色掛かった照明で、影がボンヤリと浮かび上がっているのを感じる。
あまりにも静かだと思った瞬間、後ろで金属音が響いた。扉が閉まる音である。普段であればそれほど驚くほどのことでもないが、あまりの静けさにエコーが掛かってしまっていては、ずっと余韻として残ってしまいそうなほどの強烈な音であった。
友達も送り出したあとはすぐに部屋に入ってしまったのだろう。さらなる孤独感に苛まれ、たった今扉から出てきたとは思えないほど、身体が硬直し、しばらく立ち尽くしてしまうだろうことを予感していた。
どれくらい経ったのだろう。やっと身体が軽くなり歩き始めた。すると、その中の一つの部屋の扉が開いているのに気がついた。鍵が掛かっているのだが、それがしっかり嵌まっていないのでは、部屋が半開きになるのも当たり前というものだ。
無性に興味が湧いてきた。中を覗いてみたいという好奇心だが、幸いなことに中は空き家で、まっくらな中からは、冷気しかなかった。
扉を開けて中を覗いてみる。目はすっかり暗さになれていて、奥のベランダに通じる窓から入ってくる夜景で十分部屋の中を見ることができた。
暗闇に浮かび上がる何もない部屋。これほど不気味なものはない。誰もいるはずのない部屋の真ん中に座り込み、あたりを見渡している。
――そういえば、順子と結婚するつもりで見に行ったモデルルームの雰囲気にそっくりだ――
作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次