短編集96(過去作品)
という者もいるが、棘に刺されて滲み出た血が、薔薇と同じ色であることで、真っ赤な色が血を連想する以外の何者でもないことに気付くと、瞼に真っ赤な色が焼きついて離れないことを思い知るだろう。
小学校では先生の机の上に真っ赤な薔薇が飾ってあったのを思い出した。朝などはところどころ輝いて見えたのは、露が雫になって光っていたのだろう。特に冬の時期などは、
――これほど綺麗なものなんだ――
と薔薇を見て感動したものだ。
だが、どうしても薔薇は好きになれない。赤い色が好きなのに、薔薇を思い浮かべただけで、あまり気持ちのいいものではないのは、血の色を連想するからだろうか。血の色で目の前が染まる光景は、錆び付いた鉄が雨でドロドロになっている時の匂いを嗅いでいるようだ。
雨の日というのは、どうして土の匂いがするのだろう?
真っ黒なアスファルトが、太陽に照らされて熱くなっているところなどの塵などを含んで水蒸気が蒸発するからだと思うのだが、まったく土のないところでも土の香りを感じるのだった。
子供の頃、目立たない子供だった静雄が、一度友達に急かされて、木登りをしたことがあった。なぜ急に木に登ろうなどと考えたか分からないが、普段から一緒に遊ぶことのなかった連中から見つめられて極度の緊張に陥ったのだろう。指が震え、喉はカラカラに渇き、下を見下ろすと、豆粒のように見えたくらいだ。
一匹の犬が後ろから吠えた。友達が連れてきていた犬だったが、緊張は一瞬にして意識を失わせるものとなり、気がつけば青い空を感じた。
背中が焼けるように熱い。息ができずに汗だけが滲み出ている。
クモの巣が目の前に張られたようだ。さっきまで明るかった空が暗くなり、青さを感じなくなる。黒く滲んで見える色が一瞬真っ赤に感じられた。
――血の色だ――
呼吸もままならない苦痛の中で感じた色は赤だった。黒く見えたのは、青い色と交じり合った相乗効果がもたらしたものだ。
田舎の暮らしにも慣れてきて、友達も一人できた。
別荘地の方に住んでいて、名前を梅田という。
彼も病気の静養でやってきているらしいが、どれほどの症状なのか詳しくは知らない。
「あまりいろいろ聞くんじゃありませんよ」
と母親から釘を刺されていたが、
――言われなくとも分かっているさ――
心の中で言葉を飲み込んだ。
人それぞれに事情があるということは子供心にも分かっている。だが、子供というのは時として残酷なもので、意図していないのに、思わず皮肉が口から出てしまうこともある。普段は大人しく冷静な梅田だったが、時々理不尽とも思えるようなことを口走り、相手に不快感を与えていた。
彼に対しての禁句は、公然の秘密だったが、それを子供は知らない。口走ったとして誰が悪いというのだろう。
「言ってはいけないことを言ってしまったようね」
と後から言われても、
「どうして最初から話しておいてくれなかったの」
としか言えない。大人は黙り込んでしまうが、置き去りにされた子供はどうすればいいのだろう。
そんな時も色を感じる。
今度は赤い色に青い色が混ざって見えた。
赤い色が決して目立っていたというわけではないが、暗くなるにつれて感じた青い色が赤みを帯びているように感じたことで、元が赤い色を意識していたと思ったにちがいない。
次第に悪い方へと考えが及んでくる。悪い方に考え始めると鬱状態に陥ることがあると聞いたことがあるが、その時はピンと来なかった。
普段どうでもいいように思えたことが次第に大切なものに見えてくると、
――世の中の役に立つ人間にならなければ――
という、使命感が沸いてくるのだった。
以前、担任の先生から聞かされた、
――歯車の一部――
という言葉が思い出される。
自分のすることは、必ずどこかで人に繋がっていて、また自分に戻ってくるのだと感じるのだ。自分が人間的に大きければ力はそれほど要らない。逆に小さければ、大きなものを動かすために、莫大な力を要するはずである。歯車が頭の中で音を立てて回っている。規則的な動きは大きな柱時計を連想させる。梅田の別荘には時計台があり、見るたびに歯車がまわっているのを想像していた。
時計台の後ろには山が見えていた。山というよりも小高い丘というべきだが、ちょうど時計台のてっぺんと山のてっぺんが重なって見えるところでいつも立ち止まっていた。
梅田がそんな静雄を無表情で見つめているのが、横目に見なくとも感じることができる。
時折、時計台のてっぺんに眩しさを感じることがある。それでも眩しさを感じながらで正面を向いているのは、梅田の方に顔を向けるのが怖いからかも知れない。
人の横顔を見つめていて、時々光がどこから来るのか分からないが、輝いて見えることがある。最初は顔が綺麗に浮き彫りにされて、輝いている目を見るのも嫌ではないのだが、そのうちに顔がボヤけてきて。次第にのっぺらぼうのように見えてくる。顔の凹凸だけがハッキリとしていて、目も口も耳も判別がつかない。
その顔がこちらを向いて微笑んでいる。そんな恐ろしい光景を思い浮かべるのは妄想以外の何者でもないが、他の人が自分を見る時に、のっぺらぼうではないかという想像をするのが恐ろしく、相手の方へと振り向くことはどうしてもできないでいた。
時計台は真っ白である。三角屋根に百葉箱のような白塗りの設計は、札幌の時計台を思わせるが、雪が降ることはあまりない地方では、眩しさを一手に引き受けている。
鐘が鳴るのを聞いたことはなかった。
「この鐘はならないんだよ。まわりにうるさいということで、わざと止めているんだ。よほどのことがないと鳴ることはないだろうね」
この言葉が皮肉だったことを静雄はしばらくして思い知らされる。
梅田がどんな病気だったか、ハッキリとしたことは聞かされなかったが、しばらく会うことがなかった。お互いの家に直接行くことはなく、公園がいつもの待ち合わせ場所だったが、
――最近、梅田を見かけないな――
と感じていたわりには、それほどの違和感はなかったが、その頃から急に寂しさを感じるようになってきた。
原因は梅田と会えないことではない。時期が偶然重なっただけで、むしろ一人でいる方がいいくらいだった。
一人でいるから寂しいとは限らない。大勢の人の中にいても寂しさを感じることもあるし、一人でいても、まったく寂しくないこともある。
――自分の空間さえしっかりと持っていれば寂しさなど感じることはない――
それが静雄の「寂しさ」というものに対する観念だった。
梅田を見かけなくなって二ヶ月くらいしてからだった。
「あなたのお友達の梅田君、亡くなったらしいわよ」
と、母親から聞かされたが、完全に他人事のように話している母親が冷たい人間に見えた。
「そうなんだ」
どう答えていいか分からず、思わず出てきた言葉に、今度は自分がさらに冷たい人間であることを思い知らされた気がしていた。
その時に浮かんだ光景は時計台の光景だった。
作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次