短編集96(過去作品)
という気持ちにさせられたのも、きっと最初に雄作を見て感じた懐かしさが一番の原因だと思えてならない。
雄作は藍子の質問に対して少し考えていたが、
「声を掛けようと公園に近づいていくと、君はいつも立ち上がって踵を返すようにその場から立ち去るんだ。スローモーションを見ているかのように感じていると、あっという間に君は公園を後にしていた。まるで忍者を見ているような不思議な感覚に陥っていたんだ。それでも自分がもう少し早くくれば君が立ち上がる前に話しかけられると思って、五分前に来た時も、前の日とまったく同じ光景を見ることになるんだ。一日をその瞬間だけ繰り返しているようにね。おかしいだろう?」
彼の話は突拍子もないことを言っているに違いないと感じてはいたが、分からなくもなかった。藍子が立ち上がるのは時間を見て決めているわけではない。影の長さで決めているといってもいい。一日で影の長さが五分も違うとは思えないが、彼がウソを言っているように思えないほど真剣なまなざしを浮かべていることから、まったく信じられないわけではない。むしろ彼を信じてみたいという願望もあった。
要するに二人の間に時間差があったのだ。いつも藍子が先を歩いていて、雄作が後から追いかけてくる。
「あなたの話を信じるわ。私も言われてみれば、公園でずっと誰かを待ち望んでいたような気がするの。いつも犬の姿を、そして影を見ながら待ち続けていたのかも知れないわね」
藍子の言葉に雄作も頷いている。
二人が出会った時に見たそれぞれの飼い犬が懐かしそうにじゃれ合っている光景が目から離れない。あの光景を思い出せる間は少なくとも雄作との間にしこりが起こるはずはないと思っているほどだ。
だが、その希望は脆くも崩れ去る日がやってきた。飼っている犬が病気になって、あっけなく死んでしまったからである。
さすがに次の犬を買ってこようとは家族の誰も口にしない。
「本当は最初に死んだ犬の時も、今の犬を買ってくるのは心苦しかったのよ。でもね、あなたを見ていると、寂しそうだったので、思い切って次の犬を買ってきたの。今度は子供の頃から育てるからさらなる愛情が浮かぶだろうと思ってね」
とお母さんが悲しんでいる藍子に告げた。
そういえば野良犬として彷徨っていた最初の犬も、影には意識があったようだ。明るいところばかり歩き、影に入ろうとは決してしなかった。自分が野良犬で影しか意識してこなかったということを意識しているからではないかと、子供心に感じた藍子だった。
――まだ子供だったのに、よくそんなことを感じたものね――
と思ったが、
――犬は飼い主に似る――
というではないか。自分にも同じような気持ちがあるから、冷静な目で犬を見ることができたに違いない。
藍子は小学生の頃から落ち着いていた。それは自他共に認めるところだったが、落ち着いていたというより、
――寂しさを知っていた――
と言った方が正解かも知れない。
――犬がじっと藍子を見ている――
そんな意識がずっと前からあった。前の犬の時はあまり意識なく、微笑み返していたが、今の犬と一緒に公園を散歩するようになってから、目が合うのを無意識に避けていたように思う。無意識なので、なぜ避けていたかなど分かるわけもなく、避けていたこと自体、犬の死によって気付いたくらいである。
――犬はどう思っていたのだろう――
藍子が犬を見つめていたのは無意識ではなかった。犬も感じていたに違いない。犬も目を合わさないように意識していたように思えてならないのだ。
犬が見つめていた先に、藍子自身が見えていたのだろうか? 太陽を背にして見下ろしている、当然逆光になるのではあるまいか。その証拠に犬の目が潤んで見える。その目に写った自分を見ていると、見えているという錯覚に陥るのも当たり前だ。
雄作との出会いは、犬が取り持ってくれた。いわば犬が恩人というべきなのだろうが、実際今は犬をダシにして雄作との出会いを演出してもらっている。
犬は最初の頃のように、もう影の間を行ったり来たりしていない。彼が連れてきた犬と仲良くやっているように見えるが、本当だろうか。
最近の藍子は何となく猜疑心が強くなった。雄作という彼氏ができてから急にである。
――それまでの落ち着いた気持ちはどこへ行ってしまったんだろう――
これが欲というものか。それとも被害妄想というものか。今まで感じたことのない思いが一気に藍子に押し寄せる。それは寄せては返す波のように、着実に藍子の気持ちに揺さぶりを掛けている。
そう感じると、影の間を行ったり来たりしている犬を思い浮かべるのだ。
思い浮かべた瞬間、犬が藍子を見上げている。その瞳にはきっと、夕日を背にしてシルエットに写っている藍子、だがその表情はハッキリとしていて、自分ではないもう一人の藍子が写っていることだろう……。
( 完 )
作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次