天才少女の巡り合わせ
――この人は、誰かに追われているという雰囲気ではないわ。何かから逃げているというイメージなんだけど、それが一体何なのかしら?
と思った。
ただ、追われているわけではないと思ったのは、相手が警察であったり、悪の組織のような集団から逃げているわけではないという意味であったが、ただ、それが人間からなのか、自分が置かれている状況からなのかまでは分からなかったのだ。
その頃のおばあちゃんには、まだ自分の中に備わることになる不思議な力があるという自覚はなかった。
その男が去ってから、少し拍子抜けしているところへ、おじいさんが帰ってきた。その間の時間をあっという間だったような気がすると思っていたが、時計を見ると、彼が出て行ってから、数時間が経っていた。拍子抜けはしていたが、時間の経過は正直なもので、おじいさんが帰ってきてから我に返ると、もうすでにいつものおばあさんに戻っていた。
「おじいさん、夕飯は食べてこられましたか?」
と聞くと、
「うん、食べてきた」
という返事が返ってきた。
おばあさんとしては、さっきまで拍子抜けしていたこともあって、夕飯の準備をしていなかった。おじいさんが食事をしてきてくれたのは、幸いだったのだ。
だが、自分が拍子抜けしていたこともあってか、その日のおじいさんも、どこかおかしかったことをおばあさんはすぐには分からなかった。考えてみれば、釣りに仲間と出かけたといえども、今までほとんど外で食事をしてくることなどなかった。それなのに、今日は食事をしてきたという。
――一体。どうした風の吹き回しだろう?
と思ったが、自分もその日はどうにも正常な判断力を持てそうな気がしなかったので、余計なことを考えないようにした。
おじいさんは、その日、
「もう、疲れたわい」
と言って、風呂から上がるとすぐに寝床に入り込んだ。
普段なら、おばあさんに対し、何もなくても、少しくらい話をする時間を持ってくれるのがおじいさんだった。それなのに、その日はまったくそんなこともなかった。
――ひょっとして、私の異変に気付いたのかしら?
と感じたが、どうもそうではないようだ。
おじいさんがおばあさんの気を遣っているという時は、その雰囲気を感じるのに、その時はまったく気を遣われているというイメージはなく、逆に、おじいさんの方が自分のことで精いっぱいなんだという意識の方が強かったのだ。
おばあさんが、その日の闖入者が誰であったのかというのを知ったのは、それから数日が経ってからのことだった。
それは、交番の前などで見かけた指名手配の写真を見たからだった。
罪名としては、
「ひき逃げ」
そして、その男の名前は「和田貢」となっていたのだ……。
交換鉄砲玉
綾子が午後九時前におばあさんのところから帰されるようになったのは、今から一か月くらい前からだった。おばあさんのところにやってくる訪問者は、言わずと知れた和田だったのだが、おばあさんは和田がひき逃げで捕まり、そして二年という服役をしていたのは知っていた。
何度か面会に行ったこともあったが、その時、
「出てきたら、私のところに顔を出しなさい」
と言われていた。
和田は、他の誰も信用できないと思っていたが、このおばあさんだけは信用できた。もっとも、
「信用できる人間は一人いればいい」
と思っていた和田だったので、その一人が見つかったことは、万人の味方を得るのと同等なくらいに嬉しかった。
今までの損ばかりしてきた人生の中で、信用できると思ってきた人間の何人から裏切られたことか、
「人間なんか信用した自分が悪いんだ」
と思ったりしたこともあったが、頭の中で紆余曲折を繰り返す中で感じたのが、
「信用できる人は一人だけなんだ」
という思いだった。
下手に信用できると思う人をたくさん望んでしまうと、ロクなことはないと思うようになった。
警察に捕まる前、余罪がたくさんあったのだが、これも人を信頼して裏切られた結果だった。
ちょっとしたことでも、たくさんから裏切られて一人置き去りにされてしまうと、そのすべてがトラウマとなってしまう。
信用できる人が一人もいなくなり、一人孤独だけが残るのだ。
トラウマの中で孤独を伴うものは、被害妄想になりがちであり、カプグラ症候群を形成することもあった。
カプグラ症候群とは、自分の近しい人間が、実は偽物で、自分を殺すため、あるいは災いを与えるために偽物と入れ替わっているという妄想である。被害妄想の中でも結構大きなものではないだろうか。
孤独を伴うトラウマが発展すると、カプグラ症候群を引き起こすのではないかと、刑務所に入っていた時に一緒の収容室に入っていた人間から聞かされた。その男はどうやら宗教団体なのか、それとも政治結社なのかに所属していたようで、そういうことには詳しかったのだ。
元々、和田はそんなに悪い人間ではない。どちらかというと、まわりに騙されるタイプで、掛けられた梯子を外されて、置き去りにされてしまうタイプの人間だったのだ。
そんな生活ばかりを送って、最後は刑務所に服役することになった。心の中では、ちょうどいい節目になったと感じてもいたようだ。
もちろん、自分が逮捕されるきっかけになったのが、一人の少女の助言からだなどと知る由もない。しかも、自分が慕っているおばあさんを同じように慕っている女の子だということも、もし知ってしまったら、どうなるだろう? 誰にも想像ができることではないだろう。
綾子もさすがに自分が告発した相手が、おばあさんのところに来ているとは思わなかった。綾子は確かに予知能力や、相手の心を読む力を供えてはいるが、それも万能ではない。何かある一点で共通して自分に有利に働いてはくれないのだ。それがどこから来るものなのか、綾子は分からなかったが、それは自分がまだ子供だからだと思っているようだが、果たしてそうだろうか。大人になればなるほど、子供の無邪気な気持ちを忘れていき、それと同時にせっかく備えている力の使いどころに杞憂することになるのではないかと思うのだった。
したがって、この場合の和田の存在も、綾子にとっては知る由もない条件としては整っているようで、それが自分にどんな影響を及ぼすのか、分かるはずもないのである。
綾子が帰りに武彦と出会ったというのは、確かに偶然ではあったが、武彦は綾子がこの時間におばあちゃんの家から出てくることを分かっていた。それはおばあちゃんに聞いていたからだ。
「吉谷綾子ちゃんという女の子が私の家にいつも遊びに来てくれるんだけど、いつも帰りが遅くなってしまうのが気になっていたけど、ちょうど武彦君が見回りの時間に合わせて帰るように仕向けるので、よかったら、密かに彼女が帰りつくところを確認してあげてくれないかな?」
と言われた。
「見回りの影響や、緊急で事件でも起こらない限り、僕に任せてください」
と、武彦は胸を張った。
相手が綾子であることも、武彦を張り切らせるだけの力になった。綾子という女の子を武彦が知っているなどと、おばあちゃんはきっと知らないだろうと思っていた。
作品名:天才少女の巡り合わせ 作家名:森本晃次