天才少女の巡り合わせ
それがあのおばあちゃんだったのだ。
「ところで、こんな時間までどこに行っていたんだい?」
と武彦に言われて、
「この先のおばあちゃんの家に行っていたの。以前、お金を失くしたということで困っていたんだけど、私がいろいろ考えてアドバイスしたところから見つかった縁で、仲良くしてもらっているのよ」
とあどけない表情を武彦に向けながら話した。
「それはいいことをしたね。甘えさせてくれる人ができたのはよかったよね。綾子ちゃんは今まで一人が多かったんだから、本当はもっといろいろな人に頼れるくらいになってほしいって思って言うんだよ」
と武彦がいうと、
「ええ、でも今の私にはお兄ちゃんもいれば、おばあちゃんもいる。それだけ十分なのよ」
というと、
「うん、そうだね。綾子ちゃんもだいぶ大人になってきたんだろうね」
「あら、私大人になんかなりたくないわ。いつまでも子供でいたいもん」
と、あどけない表情を見せたが、その奥にふいに大人の女性の雰囲気をにじませたのを、武彦は見逃さなかった。
――何て言えばいいのか、この子はもう大人の色香を出せるだけの魅力が備わっているんだ――
と武彦は感じた。
武彦は、綾子の話をしたおばあちゃんを知っていた。綾子は知らなかったが、以前武彦はおばあちゃんを助けたことがあった。電車から降りてきて、駅から表に出た時、腰の具合が悪くなり、そのまましゃがみ込んでしまったおばあちゃんを警ら中の彼が助けて、家まで送り届けたことがあった。それから、
「恩人だから」
と言って、体調のいい時はよく交番に差し入れを持って行ったりしたが、最近はそこまで体調がよくないので、控えていたが、警ら中にたまにおばあちゃんの様子を見に行くことはあった。それで今日もこのあたりを見回っていたということだ。
武彦はおばあちゃんの言うことなら何でも聞く。おばあちゃんはその性格から、まるで聖人君子のように見えたが、綾子はそんなおばあちゃんに、
――何か私たちの知らない秘密を持っているのかも知れない――
と感じるようになった。
その秘密というのがどういうものなのか、綾子には分からなかったが、何かを企んでいるように思えたのだ。
綾子を夜の九時前には帰して、そこからそのまま大人しく寝てしまうようなそんな雰囲気には見えなかった。ただ、何でもいうことを聞く武彦だったが、武彦とおばあちゃんの間に誰かが介在しているように思えたのだ。それがおばあちゃんの秘密であり、武彦が抱える悩みなのではないかとも思えた。
綾子が帰ってから、二十分もした頃であったが、おばあちゃんの家の近くで犬が吠えた。おばあちゃんは一瞬ビクッとなったが、その犬の吠え方で、誰が来たのか分かった気がしたおばあちゃんは、ホッと胸を撫でおろした。その犬は番犬であったが、吠え方によって、どこまで慣れている人間なのかということがおばあちゃんには分かっていた。その人が通った時、初めて見た相手に対して吠えたという雰囲気ではない。どちらかというと吠えることで、構ってほしいというある種の甘えのように聞こえるのは、その人が犬に好かれる性格だということの表れだろう。
おばあちゃんは、
「イヌが好きになる人間に悪い人はいない」
と思っていた。
おばあちゃんもその犬とはよく散歩しているところで遭遇することが多いが、いつも甘えてくるその様子に、
――この子が人間だったら、孫のようなものなのだろうな――
と思っていた。
夜のその時の吠え方も同じような吠え方をする。その犬はシェパードで、正式名称は、
「ジャーマン・シェパード・ドッグ」
というらしい。
このイヌ派、知的で忠誠心と服従心が豊富で、訓練を好む犬種である。そのため、警察犬、軍用犬、麻薬捜査犬として活用され、ゴールデンレトリバーのような盲導犬などとしても活躍している。
そんな犬が懐くのだから、悪い人でないことは確かだろう。
おばあちゃんには分かっているのだ。
その人の気配は犬の声で最初の予感となるが、次に歩き方にも特徴があり、片方の足を引きずって歩いているような感じがする。
姿が見えると安心したのか、急に顔を崩すその男は、おばあちゃんに雪崩れるように倒れこむことが最近多くなった。
「おばあちゃん」
というと、
「大丈夫かい? 顔色が悪いよ」
と言いながら、その男の顔をタオルで拭ってあげる。
おばあちゃんの家にやってきた時のその男は、いつも額から汗が流れていて、それをおばあちゃんがタオルで拭ってあげるのである。
「ありがとう、おばあちゃん。俺はおばあちゃんに助けてもらわなかったら、どうなっていたか」
と言いながら、家に上がり込んでおばあちゃんに正対する。
そして、おもむろに仏壇に向かうと、ろうそくと線香に火をつけて、手を合わすのだった。その表情は俯いているのでハッキリとは分からないが、真剣そのものであろう。口元から囁いて聞こえる念仏が、かしこまって聞こえるからだ。
「おじいさん、お久しぶりです。おばあちゃんは元気にしていますよ。ご安心くださいね」
と、彼は心の底でそう呟いていたのだ。
仏壇でのお参りが終わると、男はまたおばあちゃんと正対し、やっとニッコリと笑った。その笑顔を見るのがおばあちゃんは一番好きだった。綾子が遊びに来てくれて、あどけない雰囲気を癒しとして与えてくれるが、それ以上の癒しだと彼の笑顔を見るとそう思う。しかし出会った時は最悪だった。今から思えば、自分でもどうして今もこうしてこの男と一緒にいるのだろうと思うのだ。
あれは三年前のことだった。
まだおじいさんが生きている頃で、おじいさんが元気に近所の老人たちと釣りに出かけた時のことだった。おばあさんが一人でいると、その男が闖入してくる。とっさのことにおばあさんはまるで腰を抜かしそうになり、
「騒ぐんじゃない。大人しくしていれば何もしないから」
というマスクにサングラス。鳥打帽と言った、いかにも不審者であることを証明するかのような格好に、おばあさんは縮み上がってしまった。
老人が一人家にいるところにこの闖入者の存在は、死を意識したに違いない。成人男性であっても、この状況になれば、誰でも委縮してしまうだろう。
しかし、彼がいうことは本当であった。静かにしていれば、手荒なことはしなかった。むしろ、おばあさんの身体をいたわってくれる優しさがあったくらいだ。
「あんた、どうしたんだい? そんなにボロボロになって、そこに今日の昼食の残りがあるから、お食べ」
と言って、勧めてくれた。
さすがに最初は躊躇した男だったが、
「それはすまない。食べさせてもらうよ」
と言って、相当お腹が空いていたのか、がっつくように食べていた。
その時、男の頬を一筋の涙が流れた。その男はそれを隠そうともせず、急いでがっついていたが、次第にその涙が止まらなくなってきたようだ。
「ゆっくり食べればいいからね」
と言われて、その言葉が強烈に彼の心を揺さぶった。
その時、彼は食事が済むと、何もせずにおばあちゃんの家を後にした。おばあちゃんは直感で。
作品名:天才少女の巡り合わせ 作家名:森本晃次