短編集95(過去作品)
と、言うが、相手の表情には納得の行かないものが残っているようだった。それだけその時の浩一の表情が不可思議なものだったに違いない。
和子と出会った頃には、すでにそんな感情は消えていた。二十歳になって自分が大人の仲間入りとしたと感じた時から、子供の頃のトラウマが一気に消えていたはずだ。
二十歳になって夢を見た。子供の頃に感じたことがすべて遠い過去であるかのように感じる夢で、目が覚めて身体中に掻いた汗がそのことを物語っていた。二十歳になって急に変わるというのはおかしなことだが、どこかできっかけを求め続けていたのが、ちょうど二十歳を迎えた時だったというのは偶然ではないかも知れない。自分が知らないだけで、――他の人もきっとそうに違いない――
と感じたが、誰に聞くわけにもいかず、自分で感じたことを信じるしかなかった。
そして、本当に自分が大人になる時、目の前にいる和子を抱く時がまさしくその時なのだ。
――和子には、なるべく初めてだという思いを抱かせてはいけない――
お互い初めてだと思うと緊張してしまうのは仕方のないことだが、男がしっかりしていればスムーズに行くだろうと思っていた。だが、いざとなると男の方がどうしていいか分からなくなるもの。普段の会話とは勝手が違う。
「浩一さんはきっと、饒舌な女性と一緒にいたら、あまり喋らない方なんでしょうね」
と言っていた和子の言葉を思い出した。和子も同じ性格なのかも知れない。そのことをその日に思い知った。
いざとなれば自分からリードすることを躊躇してしまった浩一。一旦躊躇してしまえば、どうしていいか分からなくなるのも仕方のないことかも知れない。
初めてのはずの和子は落ち着いていた。浩一の態度がギクシャクし始めると、自分がリードするものだと感じたのか、それともそれが女性の性というものなのか、急に落ち着いてきて、大人の女性の表情に変わってくる。
すべてが静寂の元に繰り広げられた。部屋に入って服を脱ぎ、お互いの身体を見せることに抵抗はなかったが、その時の和子が見せた妖艶な表情に、身体全体が痺れていたようだ。
抱きしめるようにベッドになだれ込む。和子が目で誘い込んだのだ。枕元にある照明を適度に落とし、熱くなった身体を感じていたはずなのだが、感覚が麻痺してしまっていたのか、熱かったと感じたのは後になってからだった。
目が慣れてきているはずなのに、吐息だけが聞こえていた。最初は目を開けていたが、すぐに目を瞑り、と域を感じている。中途半端な明るさの中で感じているよりも、目を瞑って想像だけで感じる方が、何倍も興奮してくる。そのことを思い知ったのも、その時が初めてだった。
その時、ハッキリと母親のトラウマから抜けた気がした。明らかに母親に感じていた小さい頃の身体の思い出とはまったく違っている。匂いからして全然違うのだ。
甘い香りを感じていた母親と違い、今目の前で快楽を感じながら半分震えている女性から感じられる香りは、柑橘系が強いものだった。
普段は甘い香りを漂わせている和子ではないような香りだが、妖艶な表情に変わった和子からは違和感を感じない。
――これが女性の香りなんだ――
と感じていた。
和子の身体を浩一が貫いた時、和子は大きくのけぞった。苦痛に歪んだ顔が目を瞑った瞼の裏に浮かんだのは、低く呻くような声が聞こえたからだ。
それでもここで止めたらすべてが台無しになることは分かっていた。普段は優しさを前面に押し出している浩一が、その気持ちを押し殺さなければならない瞬間である。まるで自分も同じ痛みを感じているかのような気持ちになって、硬くなったままの自身を突き立てていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。少しずつすべりのよくなった和子の身体に欲望を吐き出した瞬間までは覚えているのだが、それからすぐに眠ってしまったようだ。欲望を吐き出した瞬間、
――これでいいんだ――
と感じた。本当は女性を自分のものにした征服感のようなものが身体に漲るものだと思っていただけに、少し拍子抜けしたように感じたが、あくまでその日は「儀式」だと思っていたので、それ以上のことを思わないように心がけていたのかも知れない。
一気に襲ってきた脱力感に、お互い身体を押し付けるようにして眠りに就いた。
眠りに就く前に、目を開けて和子の顔を見たが、すでに妖艶な表情はなく、満足感に満ち溢れているように思えた。幾分自分本位な見方かも知れないが、正直そう感じたのである。
それからしばらく和子とは付き合った。
その日のことは後でお互いに触れないようにしていた。恥ずかしいという思いよりも、その日の二人はお互いに自分たちではなかったような思いを抱いていたからに違いない。浩一にしても男として情けないものを感じ、和子としても、あんな妖艶な姿は自分ではないと思っていることだろう。だからこそ、お互いにその日のことを触れようとしないのだ。
それから会うと必ず身体を重ねてきた。
どちらかというと、浩一が誘うことが多かったに違いない。最初はどちらが誘うということもなく、自然だったのだが、次第に和子の方に疑問が湧いてきたのかも知れない。
浩一は、会って身体を重ねることは当然だと思っていた。気持ちを確かめ合うことと、相手の身体を求め合うことは恋人同士であれば当然なのだ。恋人同士だからこそ感じるころなのだと思っていた。和子の心の微妙な変化に、まったく気付いていなかった。
和子は従順で、浩一のいうことに逆らうことはない。何か意見があっても、必ず浩一の意見を尊重する形での意見なので、浩一にしてみれば、すべて自分の意志で決めているように感じていることだろう。
夫婦でいえば亭主関白、浩一の理想の夫婦感も亭主関白だった。自分の両親を見ていて感じていたことだが、無口な父親に三歩下がってついてくる母親、そんな姿を見て育った浩一は、自分も同じなのだと感じていたのだ。
和子と知り合った頃の浩一とは明らかに違っていた。初めて身体を重ねた時に、
――身体を重ねたからといって、彼女を征服した気分になってはいけないんだ――
と自分に言い聞かせていたが、それは亭主関白を意識したからだ。
まだ夫婦になったわけでもないのに、意識するわけには行かないという強い思いが却って災いとなってしまったのかも知れない。
――意識しないようにすればするほど、意識してしまうのだろうか――
その頃の浩一は、自分でも落ち着きのないことに気付いていた。
和子は社会人になっている。自分はまだ学生なのだという思いが浩一の中で大きなものになっている。まだ知らない世界である社会という荒波、あと少しで自分も飲まれてしまう。
社会というものに異常なまでの意識を持っていた。大学という甘い世界から、急に社会に出るという厳しさに耐えられるかというのも不安の元だった。
「そんなの、なってみなければ分からないよ。それは誰だって一緒だよ。それを今から不安に感じていてどうするんだよ」
と、友達は言うが、浩一はやはり小心者なのだ。分かりきっていることは先に考えておかないと不安で仕方がない。
「その時になったら何とかなるさ」
という理屈は浩一には通じない。
作品名:短編集95(過去作品) 作家名:森本晃次