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短編集95(過去作品)

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 冬の旅行というとスキーが中心で、なかなか落ち着いて温泉に行くということもなく、温泉旅館の雰囲気は頭の奥深く封印されてしまい、表に出てくることはなかった。
 大学に入学すると、浩一に彼女ができた。それが和子だった。
 それまでは好きな女性がいても、声を掛ける勇気もなく、目立たない生徒だったこともあって、人から注目されることもなかった。女性からどんな目で見られているか興味もあったが、実際は興味よりも不安の方が大きく、
――本当に彼女ができるのかな――
 と感じたほどだ。
 彼女ができさえすれば、きっと会話は弾むと思っていた。人と話をすることに抵抗を感じない浩一は、最初のきっかけだけだと思っていた。最初に話題さえあれば、会話を続ける自信があるのも、想像力は人に負けないと思っているからだ。
 高校時代には、文芸部に所属し、詩を書いたりしていた。ものを作ることに造詣の深い浩一は、詩を書くことで気持ちを表に出すのが好きだった。
 詩のように制約の多い文章を考えているのだから、普通の会話ができないはずがない。できないとすれば、最初のきっかけが分からないだけで、きっかけさえあれば、後は勝手に発想が膨らんでくるものだと思っていた。
 確かに大学に入って知り合った女性とは、会話に間が空くということはなかった。元々饒舌ではない女性と知り合ったので、ほとんどが浩一からの話題である。最初は、彼女のリアクションに戸惑ったところがあったが、お互いに性格が分かってくると、会話のキャッチボールがスムーズに行く。
「浩一さんはきっと、饒舌な女性と一緒にいたら、あまり喋らない方なんでしょうね」
「どうしてだい?」
「優しいから、相手に会話の主導権を譲ってしまいそう……」
「そうかも知れないね。君も、だいぶ会話に慣れてきて、お互いに気持ちが通じるようになってきたよね」
「やっぱり言葉にしないと、通じ合えない気持ちってあるんでしょうね。分かってくれているっていう思い込みがあると思うわ」
 漠然と聞いていた。理屈は分かっても、やはり言葉にしなくとも、心で通じ合えるはずだという気持ちが強く心の中を支配していたはずである。
 バレンタインデーを思い出していた。
 生まれて初めてもらったチョコレート。それまでバレンタインデーというと、なるべく意識しないようにしていた。意識すると、自分を蔑んでしまう気持ちになってしまう自分がいるのに気付き、どこまで行っても自分が惨めでたまらなくなる時期だった。
 だが、チョコレートをもらうと、長く忌まわしい日だと思っていた一日が、素敵でずっと続いてほしい一日に変わってしまう。実際にはあっという間に過ぎてしまい、ただの一日と変わらないが、本当の楽しみは、それ以降であった。
 バレンタインデーとは知り合ったり、告白する日であって、始まりの日である。本当に大切なのはそれ以降、親しくなるか、それとも気持ちがすれ違うかは、始まりがあってこそなのだ。浩一にとって始まりの日が素敵な日であることは間違いなく、ただ、唯一勘違いしていたとすれば、気持ちが永遠に不変だと思ってしまったことくらいであろう。
 だが、それは浩一に限ったことではない。バレンタインデーに告白された男は、相手の気持ちが不変であると思いがちである。女心が不変であるはずなどないことを思い知るには、一度失恋をしなければ分からないというのも皮肉なことだ。
 和子は短大生だったので、浩一が大学生、和子は就職という形で、少し立場が変わってしまった。
 和子と知り合った時には就職が決まっていて、気分的にも落ち着いていた時期ではあった。和子も、
「今まで男性の方とお付き合いしたことなどなかったんですけどね」
 と言っていた。
 付き合い始めの和子は引っ込み持参なところが多く、男性にリードしてもらうタイプの女性である。人見知りするタイプでもあり、ちょうど和子と波長の合う浩一が彼女と知り合うことができたというのも、和子にとって運命を感じていたようだ。
 和子は初めて男性と付き合うということもあってか、浩一が他の女性と自分をどう比較して見ているかが気になっているようだ。
「私って、他の女性に比べて優しくないのかしら?」
「私って、他の女性よりも無口よね?」
 などと、やたら比較したがるのである。
「僕は初めて女性と付き合うからよく分からないよ」
 と言っても、時々会話に間ができると、気になるようである。
 最初の頃は会話に間などなかった。あまり饒舌でない女性が相手であればいろいろな話題が出てくる浩一ではあったが、それも相手を普通の意識で見ている時のことで、バレンタインデーにチョコレートをもらったりして特別な感情を抱くようになると、会話を選ぼうとする意識が働くのは無理のないことではないだろうか。それをなかなか和子は理解してくれないようだった。
 和子とはバレンタインデーの後、ホワイトデーのお返しの日に、初めて身体を重ねた。知り合ってから三ヶ月ほど、早いか遅いかはよく分からない。浩一自身は普通だと思っていたが、和子にとっては待ち遠しかったのかも知れない。
「君がほしい」
 一大決心の元、浩一の口から出た言葉に、和子の目は間違いなく輝いていた。
 期待と不安、どちらが大きかったのだろう? 浩一は少なからず一大決心して出てきたはずの言葉を口にした後、一瞬だったが、後悔の念に駆られた。
――なぜ後悔などしたのだろう――
 自分でも分からない。その時の和子の輝いた目を見た時、後ろめたさのようなものを感じたに違いない。元々小心者である浩一にとって、一大決心は後悔の念と紙一重だったのだろう。
 その気持ちを和子に悟られないようにしなければならなかった。相手の不安を少しでも麻痺させてあげるのが男としての浩一の役目である。
 思い切り和子の身体を抱き寄せた。恥ずかしさを少しでも和らげてあげようという気持ちだった。ホテル街など立ち入ったことのない二人が歩くのである。特に女性は恥ずかしさで顔から火が出るような思いに違いない。
 和子も腕を回して抱きついてくる。コートを通してでも和子の暖かさと胸の鼓動を感じることができ、
――こんなに胸の大きな女性だったんだ――
 いやらしい気持ちではなく、素直にそう感じた。これから和子のすべてを知ることになるはずなのに、胸の大きさを感じた途端、
――前から知っていたような気がする――
 と感じた。
 しかも初めて服の上からとは言え、女性を抱いた感触だったはずである。
――小さい頃に感じた母親の身体を思い出しているのかも――
 と思った。
 母親に対しては、一時期特別な感情を抱いたことがある。
 いやらしい思いだったので、なるべく思い出さないようにしていた。トラウマとなって心の奥底に眠っていたのだろう。それが時たま思い出される。
 女性と付き合い始めて、思い出すこともあったが、無意識に母親の身体と比較している自分に気付き、自己嫌悪に陥る。
「どうしたの?」
 その時付き合っている女性に聞かれて、本当のことを話せるはずもない。
「いや、何でもないんだ。気にすることじゃないよ」
作品名:短編集95(過去作品) 作家名:森本晃次