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短編集95(過去作品)

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 思わず呟いたのは、真っ暗な中で自分の声を確かめたかったからだ。閉まっているカーテンの端からかすかに忍び込んでくる明かりは、真っ暗なかなではありがたかった。ボンヤリとではあるが、微妙なほどの明るさで浮かび上がった部屋の雰囲気から、部屋の広さを感じることができるのは、いつも利用しているからに他ならない。
 喉が渇いていた。身体には汗を感じ、薬が効いていたことを知ると、暖かさが身体の奥から滲み出てくるのが分かってきた。トイレを済まして戻ってくると、お茶を入れ、一口口に含む。
 意識がしっかりしてくると、夢を見ていたことを思い出した。普通、目が覚めてすぐに、
――夢を見ていたんだ――
 と感じ、意識がしっかりしてくると夢の内容を忘れてくるものだが、その時は少し事情が違った。
 目が覚めてすぐに夢を見ていたという意識はなかった。意識がしっかりしてくるまでにそれほど時間が掛からなかったのも影響しているかも知れない。
――思ったよりも、すっきりとした目覚め――
 こんな目覚めは久しぶりだ。それだけ薬が効いていたということだろう。
 普段から薬を飲むことはあまりなかった。頭痛がすることはあっても、仕事をしていて気がつけば引いていたということも今までには何度もあったからだ。出張に出てきたという環境の違いが、いつもは我慢できる痛みを我慢できない痛みに変えてしまったのかも知れない。
 その日の福岡は、いつもに比べると寒かった。全国的に寒くなるという予報であったが、佐川の予想を遥かに上回る寒さであったことには違いない。
――やっぱり相性が合わないんだ――
 とまたしても感じさせられた。
 その時のことを思い出しながら斉藤の話を聞いていた。
「福岡の街では、中洲のような歓楽街があって、そこに繰り出すのは、何というか男の楽しみとでもいうか、分かるだろう?」
 照れくさそうに話すが、この男の隠れた一面を見たような気がした。決して照れくささなど表すような雰囲気に見えなかったが、
――斉藤だって、一人の人間なんだ――
 と、男臭さだけしか感じていなかっただけに、親近感がさらに湧いてくる。
「その日は夕方まで暖かかったんだけど、急に夜になると冷えてきたみたいなんだね」
「冷えてきたみたいって、意識はなかったのかい?」
「あのネオンサインだよ。中洲は夜が更けていけばいくほど、夜の街が顔を出して熱くなるものなんだよ。それが歓楽街の歓楽街たるゆえんだな」
 切々と訴えていたが、何となく分かるような気がする。自分がその中にいる姿を想像するのは困難だが、川の横から見るネオンサインはいつまでも不変であることは今までに来て知っていたし、力を感じてもいた。
「だけど、俺も学生時代とは違うんだよな。次の日の仕事のことが時間が経つにつれて、少しずつ頭を擡げてくるようになるんだ」
「それは当然のことだよね。俺たちはサラリーマンなんだからね」
 斉藤がその時、寂しそうな顔をしたのを見逃さなかった。しばらくの沈黙の後、斉藤がおもむろに話し始めた。
「大学時代は、体育会系で鳴らしていたんだけど、ある意味一匹狼の意識を持っているんだ。縦社会としての組織の中での自分とは別に、もう一人の自分がいるってことを意識しているんだ。その俺は一匹狼で、他の連中に立ち入ることのできない厚い壁を作っているんだ」
 サラリーマンという言葉に反応したに違いない。社会人というのと、サラリーマンという言葉では、かなりニュアンスが違う。社会人といった方がよかっただろう。
「次の日の仕事を気にするのは、君に限ったことじゃない。誰だってそうだよ。むしろ気にしない方がどうかしている」
 もう一人の斉藤に話しかけたつもりだったが、聞いていた方はどう感じただろう。斉藤のいう、もう一人の自分という存在は感じていた。それは斉藤だけに限らず、自分にあることだ。
 きっともう一人の自分という存在は誰にだってあるに違いない。要はそれを本人が気付いているかということだろう。佐川にとってもう一人の自分の存在が見えるのは、今のところ自分と、斉藤と、そして大学時代の親友であった福山だけである。
――福山の場合は、表に出ている自分ともう一人の自分を巧みに使い分けるのがうまいやつだったな。うまいというよりも、時々どちらの福山か分からない時があった。臨機応変だったんだな――
 臨機応変に身体の中でうまいこと時々入れ替わっていたのだろう。他の人に意識させることもなく実にうまくである。佐川が福山を尊敬して止まない理由はそういう臨機応変なところにもあったのだ。
 斉藤の話を聞いているうちに、その日に見た夢がおぼろげながらに思い出された。
――確かあの時に福山が夢に出てきたのではなかったか――
 福山の夢を見ることは今までに何度かあったが、その時の福山は出会った頃の福山だった。まだ、中学生だった二人、友達とあまり一緒に遊ぶことのなかった佐川に野球を教えてくれたのが福山だった。
 小学生の頃から野球とテニスに打ち込んでいたこともあって、さすがに運動神経は発達していた。一番最初に尊敬の念を福山に抱いたのがいつだったかというと、運動神経の素晴らしさを感じた時だった。元々スポーツが苦手だったことが友達を遠ざける原因となっていた佐川にとって、福山は眩しく見えたのだ。
 そんな福山が小学生姿で野球を教えてくれている記憶がそのまま夢に出てきたにもかかわらず、夢を見ている佐川自身、自分が社会人であるという意識があるのだ。
 違和感を感じないのは、どうして社会人であるかということを、すぐに理解できたからだ。夢を見ている自分と、夢の中にいる自分とが違ったからである。夢に出ている自分を意識すれば、自分が子供の頃に戻っている感覚になるし、夢を見ている自分を意識すれば、社会人である自分を意識できるのだ。だが、両方同時に意識することはできない。どちらかの自分になっている時、もう一人の自分は架空の存在でしかなかったのだ。
 あどけない笑顔の福山だったが、次第に存在がぼやけてくるのを感じていた。
――夢が覚めようとしているんだ――
 そう感じると、
――覚めないでくれ。もっと見ていたいんだ――
 と訴えていた。どちらの自分が訴えているのか考えたが、きっとどちらの自分もであろう。どちらが強いかと言われると、夢の中の自分の方が強い。夢を見ている自分はあくまでも客観的で冷静な目をしている。夢から覚めていく瞬間を感じることだってできるほどである。
「俺は子供の頃の夢を見ることって今までに一度もなかったんだ」
 子供の頃の夢を見たと斉藤に話したが、過去を振り返ることになるという意識が強いのか、斉藤は胸を張るように話していた。
「覚えていないだけではないのかい?」
「それはないだろう。子供の頃の記憶って、意外と残っていないものだよ。もし夢で見たとしても、それが自分の子供の頃だという意識がないかも知れないな。過去は過去さ」
――やはり――
 サラリと言い切った斉藤の表情に少し翳りのようなものを感じた。明らかに今までに見せた斉藤にはない表情である。
「身体がきつい時は、見た夢を覚えていないことが多いので、見ているとすればその時かも知れないな」
作品名:短編集95(過去作品) 作家名:森本晃次