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短編集95(過去作品)

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「いや、そんなことはないんだ。逆に霊感というもの自体をあまり信用する方ではなかったくらいなので、その時の自分が自分ではないように思えてくるくらいだったんだ」
「風邪だったんじゃないのかい?」
「近くの薬局で風邪薬を買ってきたんだが、何か食べておかないと薬が飲めないと思って、会社の近くの食堂に入ったんだ。そこでうどんを食べて薬を飲むと、だいぶ体調がよくなってきて、今度は却って身体が宙に浮くような気持ちになってきたんだよ。酒に酔うっていうのは、こういうことなのかなと思ったほどだよ」
 アルコールにはめっぽう強い斉藤だった。普段会社の呑み会で酔っ払ったところなど見たこともない。
「君は身体も強そうだから、あまり薬を飲むこともないんだろう?」
「そうだね。風邪からの発熱など子供の頃にたまにあったくらいで、今はほとんどない。熱を出せば、子供の頃のことが、まるで昨日のことのように思い出せるんじゃないかと思うくらいだよ」
「じゃあ、風邪を引いた時のきつさは覚えているんだね?」
「風邪を引けば思い出すって感じだね。だけど、あの時は熱が出そうな感じはしなかったし、どうも風邪からだけではないようだったんだ」
「寒気がしたんだろう?」
「寒気はしたが、身体が痺れるような感じではなかったんだ。ただ、手や背中に汗をじっとり掻いてしまうほど身体が熱くなっていたので、てっきり風邪からだと思ったんだよ」
「で、結局何だったんだい?」
「その日はいつもと気分を変えたくて、普段出張で泊まるホテルとは違うところに泊まったんだ。少し離れたところで、海の近くの景色の綺麗なところにね。今までは出張先のホテルを変えるなどということはなかったんだけど、自分でも不思議だったんだ。出張の数日前に福岡の綺麗な海を夢に見たからだろうね」
 気持ちはよく分かった。何を隠そう佐川も会社で決まったホテルばかりを利用しているわけではない。時々違うところを利用している。だが、斉藤と違うところは、前もって計画しているわけではなく、現地に入ってから、その時の気分で決めるのだ。同じ部署の先輩も、
「いつも同じ宿だとウンザリくるからね。たまには気分を変えなきゃ」
 と、予約は会社側が行うのではなく、本人に任されていることからできることであった。しいて言えば会社指定のホテルに泊まると、幾分かの割引が利くということで、指定というよりも推薦に近いのかも知れない。しかし佐川は福岡に限っては、会社指定のホテルばかりを利用していた。あまり相性のよくない土地で、コロコロ泊まるホテルを変えるというのも、あまり気分のいいものではないからだ。
 斉藤の話を聞きながら、福岡の街を思い浮かべていた。
 支店長に連れて行ってもらった中洲のスナックのイメージが浮かんでくるが、一人で行けと言われれば無理だろう。同じようなビルが立ち並ぶ街並みである、一度しか行ったことがなければ無理もないことだ。
「その泊まったホテルというのは、福岡の歓楽街、中洲の近くなんだが、会社からは少し離れていたね。そう、ちょうど小さな川の横だった」
 斉藤は続ける。
「そのホテルに泊まった時、かなりアルコールが入っていて、きっと体調を崩していたんだろうね。普段アルコールを飲んでも痛くならないはずの頭が痛くなってきたんだ。フロントで薬をもらって飲んだんだけど、その時のホテルが異常に狭く感じられたんだ」
 話を聞いていると、佐川は、自分の経験を思い出していた。佐川もあまり出張で体調を崩す方ではないが、以前に福岡に止まった時、体調を崩したのを思い出していた。そういう意味でも福岡という土地は相性の悪さに拍車を掛ける要因がいくらでもあるのかも知れない。
 いつも泊まるホテルの近くに川はない。会社にほぼ近いところに位置しているビジネスホテルのまわりは、文字通りビジネス街であった。ホテルの前の通りは実に狭く、昔の商人の街をそのまま現代にタイムスリップさせたような広さだった。
 立派なビルが立ち並んだ光景を昔の商人が見ればどう感じるだろう。確かに昔は商人の街として栄えていたところだったはずで、店の前には幟が立てられているような光景を思い浮かべることができる。それから比べると実に静かな佇まいになったものだ。
――これだけの大きなビルが立ち並んでいる中に、どれだけの人が働いているんだろう――
 あまりの静けさに不気味な雰囲気を感じるほどだった。一度仕事を済ましてビジネスホテルにチェックインした時間帯に頭痛を感じ、そのままどうしようもないほどの痛さに苛まれたことがあった。ホテルの人に薬局を聞いて出かけたのだが、ホテルを出て見上げたビル群を見て、
――これほど高いビルが連なっていたんだ――
 と今さらながらに感じたものだった。
 薬局はすぐに見つかり、その場で頭痛薬と風邪薬を飲んだが、空腹時だったので、少し胃が痛くもなっていた。意識が朦朧としてきたのも無理のないことだった。
 明るくないはずの小さな薬局の明かりがやたらまぶしく感じ、睡魔に襲われてきたのを感じていた。
 言わずと知れた風邪薬のせいだった。
――風邪薬がこれほど効くなんて――
「風邪薬は眠気が来ますので、そのまま宿に帰ってお休みになった方がいいですよ」
 と薬局の店主に言われたが、言われるまでもなく、これでは寝るしか仕方がない。薬が効きやすい体質なのだろうか。
 その時には感じなかったが、考えてみれば、店主がよく佐川を旅行者だと思ったものだ。このあたりのビジネス街の連中が、この薬局に来ることはほとんどないという証拠である。来る時よりも宿までの距離が長く感じたのは、やはり薬が効いているせいに違いない。道が分かっているはずなので、普通であれば帰りの方が近く感じるはずなのに、遠く感じるということは、それだけ意識が朦朧としていたに違いない。
 ロビーに戻ると、フロント係に、
「おかえりなさいませ。顔色が優れませんが、大丈夫ですか?」
 と言われ、
「ええ、大丈夫ですよ。先ほど教えていただいた薬局で薬を飲みましたので、その影響だと思います。
「さようですか。それではさっそくお休みになった方がよろしいでしょうね」
 と言ってルームキーを差し出した。
 その時の表情が少しニヤけていたことを今でも思い出すことができる。
――体調が悪いのでそんな風に感じたのだろう――
 とあまりその時は気にしていなかったが、後から考えれば考えるほど、その時のロビーでの雰囲気が異様だったように思えてならない。
 狭いエレベーターでは少し呼吸困難を感じたほどだ。上がっていく瞬間に感じた狭さが一番だったが、降りる時にも少し狭さを感じた。止まる時の身体が宙に浮く感覚からは広さを感じてもよさそうだが、狭く感じたのは、天井が果てしなく頭の上から遠く感じたせいではないだろうか。
 扉の前でカードを通す。冷たい風を全身で浴びたが、朦朧としている意識の中で、何とか暖まって眠りたいという気持ちの強さからか、あまり覚えていないまでも、暖かくして寝ていたようだ。意が就いた時は真夜中で、薄暗がりの中で目を覚ましていた。
 枕元のデジタル時計が緑色に光って数字を映し出していた。
「二時か」
作品名:短編集95(過去作品) 作家名:森本晃次