短編集95(過去作品)
泣きながら坂崎少年に縋りつかれた母親が父親を罵倒する。さすがに悪いことをしたと思ったか、悪びれたように顔を下に向けているのを、母親の胸から隙間見ていた。
そんな父親を嫌いではいたが、いつも何か考えている父親を尊敬もしていた。
「何かを考えるから、何かが生まれるんだよ。人間考えなくなったおしまいだ」
と父は言っていたが、まさか自分もそんな風になるとは思ってもみなかった。
いつも考えごとをしていることをまわりから言われるようになったのは中学に入ってからだ。それまでは、目立たなかったのか、それとも、相手にされていなかったのか、誰からも指摘されなかった。小学生時代一人でいることは自分本位だという考えは一切なかった。
中学に入って友達から、
「君は考えごとをする時間が多いね」
と言われても、表情からまんざらでもない雰囲気が漂ってきた。自分本位だという意識もなく、却って、
――考えごとをするのは、しないよりもいいことなんだ――
という気がしてくるくらいだった。
本当に自分の性格を分かるようになったのは中学時代だっただろう。その時に何か大きな精神的な、そして肉体的な転機があったのだが、思い出せない。トラウマになっているのだろうか?
大学時代に付き合った女性は、そんな坂崎があまり好きではなかったらしい。他の部分は好きになってくれたのだが、
「あなたの考えごとをしているところ、私にはついていけないのよ。私は私だけを見てくれる人が好きなの」
と言って離れていった。
最後の言葉が耳に残ってしばらく離れなかったが、以前なら、
――そっちこそ自分本位じゃないか。そんな女、こっちから願い下げだ――
と思ったのだろうが、思春期の真っ只中、毎日に刺激を求めるがために、半分気弱になっていたのか、面と向って言われると、ショックが大きい。
考えごとをしている坂崎を好きだと言ってくれたのは和代ママだけだった。さすがに大人の女を感じさせる女性、寛容なところが懐の大きさを感じさせてくれる。
「私ね。以前にも考えごとをよくしている男性と付き合ったことがあるの。その人はすぐに私の前からいなくなったけど、あなたはいなくならないでね」
身体を重ねた後に訪れるいつもの倦怠感の中で、和代が言った言葉だった。半分放心状態になっていて、敏感な身体を持て余していたが、その言葉を聞いて、ほのかな甘い香りを感じた。それは今まで感じていた淫靡な甘酸っぱさではなく、少女のような香りである。
「以前にどこかで感じたことのある香りだ」
小声だったので、和代に聞こえたかどうか分からないが、横目で見ると、こちらを見上げて微笑んでいる。
――母親といる時だ――
父親に怒られて、母親の胸の中に顔を埋めて父親を隙間見た時に感じた香り、甘い香りだったのを今思い出した。もし、この時和代がこの話を持ち出さなければ香りを思い出すこともなく、母親を思い出すこともなかったであろう。
母親の顔は完全に忘れてしまっていた。
背はあまり高い方ではなかったが、近くにいて、しかも子供が見るのだから大きく見えても仕方のないことだ。目は大きい方で、父を見上げるその目は、下から見ていると輝いて見えたこともあった。時々挑戦的な目をする母だが、基本的には父を尊敬していたのかも知れない。そうでなければあんなに輝いた目ができるはずがない。今さらながらにその時の母親のまなざしを思い出す。
和代と布団の中にいると、汗を掻いているのに、気持ち悪さを感じない。すぐに汗も乾いてしまうようで、安らぎが汗の冷たさを吸い取ってくれているのかも知れない。
和代の寝顔を垣間見ると、店に出ている和代でもなく、激しく坂崎を求める和代でもない。そこにはまわりを寄せ付けない自分の世界が広がっているように見え、
――一体どんな夢を見ているんだろう――
と感じてしまう。
和代と一緒にいると、大袈裟なようだが、まるで違う世界にいるような気になってくる。和代との時間を過ごした後、自分の世界に戻っていくと、どこか違う世界である。
何が違っているのか、最初は分からなかった。和代とのめくるめく世界を堪能した後なので、夢から覚めたような感覚に陥ったのではないかと感じていたが、どうもそれだけはなさそうだ。
ある日、和代の身体に異変を感じた。いつものように激しく求めてくる和代だったが、惰性ではないかと感じたのだった。いつものように汗を書いているが、その匂いも微妙に違っている。甘酸っぱさの中の甘さが薄く、酸っぱさだけが目立っている、
さらに気のせいだろうか。男の匂いすら感じるのだ。
――自分以外の誰かに抱かれたのだろうか――
とさえ思うほどで、
――それにしては、この男を求める激しさは一体どこから来るんだろう――
と不思議に感じる。
だが、違和感を感じたのは最初だけだった。普通であれば、最初に感じた違和感が次第に疑惑となって大きくなるのだが、次第に感じたことがウソだったのではないかと感じる。
――やはり、同じタイプの男性を好きになるというのは本当なのかな――
和代が自分を好きなのかどうなのか分からないのに、そう思えてならない。勝手な想像ではあるが、和代を抱いている時の坂崎はナルシストになっている。
和代の中に放った後、いつも陥る放心状態が解けると、いつもとは違った気分であった。身体の興奮は収まらない。それは性的な興奮ではなかった。身体の奥から言い知れぬゾクゾク感が襲ってきて、顔は真っ赤、食いしばった歯で歯軋りを起こしている。こんな感覚を以前にも味わった気がしていたが、それもごく最近、いや、つい今しがたと言ってもいいくらいだ。
――これが殺意というものか――
誰に対する殺意だというのだろう?
彼女の後ろに感じたもう一人の男への殺意なのだろうか? それとも、自分以外に男に抱かれた女に対しての裏切りへの殺意なのだろうか? 自分でも分からない。
「私ね。実は、あなた以外とも関係しているの」
放心状態が解けた和代が力なく話し始めた。
「その人はいつもあなたがこの部屋を出て行ってしばらくすると現れるの。まだ私の身体にあなたの感触が残っている間にね。でも、今日は逆だったわ。あの人が先で、今日はあなたが後……。私も思わず戸惑ってしまった。最初は分からなかったんですよ、あなたが来たと思ったくらいですからね。いつも迷っていました。どっちの人が本当に好きなんだろう? ってね。二人の男性はあまりにも似すぎているんです。まったくの瓜二つ。やっと最近どっちがどちらか分かってくるようになった。それで、今まではあなたが先で、もう一人が後だって分かったのよ。でも今日は反対。一体どうしてなのかしらね」
最後の方は、声を絞り出しているようだった。激しく身体を求めてきた和代とはまるで別人。こんな彼女に殺意を抱いたとはとても思えない。
では、彼女の後ろで見え隠れする自分に似た男への殺意だろうか?
それも違うような気がする。
作品名:短編集95(過去作品) 作家名:森本晃次