短編集95(過去作品)
誘いはママからだった。おもむろに表に出て、看板を中に入れている。
「もう、今日は店じまいですわ」
時計を見れば、午後十一時、店に来て黙々と呑んでいた時間が長かったように感じていたが、すでに十一時を過ぎているなど思いもしなかった。
――ここでは不思議な時間が流れているのかも知れないな――
冷静に呑んでいたつもりだったが、身体はすでに敏感になっていた。数日前に感じた夢のような時間がまたやってくると思っただけで、胸の鼓動は激しくなる。
湿気を帯びた重たい空気、甘酸っぱい匂いが部屋全体に充満している。その匂いを感じているのは二人だけ、和代の目を見れば、そう語っているかのように思えた。
暗黙の了解は店に入った瞬間から出来上がっていた。坂崎が奥に入ると、すでに布団は敷かれていて、坂崎が和代を待っていればいいのだ。布団に入り込むまで聞こえる音は衣擦れの音だけで、店で後片付けをしているはずの音は、何も聞こえなかった。
――この部屋と店は、別世界なのかも知れないな――
勝手な想像ではあったが、坂崎にとってはその方がありがたい。音はしないが、ママの気配は感じている。こちらの部屋に入ってきた瞬間から、ママは和代に戻るのだ。
ママとしてカウンターの向こうにいる雰囲気も妖艶で悩ましい。それは坂崎だけが感じることではなく、他の客も同様だろう。だが、一歩奥の部屋に入って和代に戻る瞬間を知っているのは自分だけと思うと、ママとしてカウンター越しに覗く姿も、きっと他の人と違う目で見ていることだろう。
意識しているつもりはないからだろうか、ママの普段と変わらない姿に違和感はなかった。一生懸命に仕事をしている姿に疲れは感じられず、みずみずしさに懐かしさと力強さを感じた。
――カウンターの中にいるママには、お袋を感じているんだろうな――
じっと見つめていては感じることができないだろう。時々様子を窺う程度の方が、余計に母親がそばにいるように思えてくる。
坂崎の母親は、厳しい人だった。威厳を感じるというほどではなかったが、曲がったことの大嫌いな人で、男勝りでもあった。
父親が転勤族で、単身赴任が多いこともあってか、自分がしっかりしなければいけないという意識が滲み出ているのは分かっていた。
だが、元々がそれほど気丈な方ではないのだろう。子供の目から見ても、無理をしているように思えるところが多々あり、話を聞いていて理不尽だったり、理屈に合っていない話しをすることも時々あった。
そんな母親を見て育っているからであろうか。母親というもののイメージが中途半端に形成されている。母親に雰囲気の近い女性についつい興味を持って、気付いてみれば入れ込んでしまっていることもある。今までに付き合ってきた女性で、母親の雰囲気を追いかけていたと感じる人もいた。気付いた時には、相手が坂崎に見切りをつけていることが多く、
「あなたは私の後ろに誰か違う人を見ているようね。最初から感じていたけど、それが誰だか分かってきたのよ。だから、もうそんなあなたと一緒にいることができないわ。さようなら」
と言って去っていった。
相手が誰かをハッキリ言わなかったのは、相手の女性の優しさだろうか? いや、そんなことはない。呆れかえって相手のことを口にするのも嫌だったからに違いない。
今まで付き合った女性は、純情な女性が多かった。そんな純情な女性に、どうして母親のような毅然とした態度を取るような、しかも頭が上がらない母親をイメージしてしまったのか、自分でも分からない。
初めて母親とダブって見える女性に出会った気がする。カウンター越しに面と向っているよりも、背中を向けて仕事をしている姿が、母親を思い起こさせる。何が忙しいのか客は誰もいないのに、せわしなく動き回るママの姿に母親を見ていた。
そういえば、子供心に、
――忙しいわけでもないのに、どうしてそんなに動き回っているんだろう――
と思ったものだ。だが、よく考えてみればそれは坂崎自身の性格にも言えることだった。学生時代からのことでもあったが、今でも会社で仕事をしていて、
「何がそんなに忙しいんだ? 落ち着きなく動き回っているけど、見ていると無駄な動きが多いような気がするぞ。イザという時に大丈夫なんだろうな」
と上司から叱責を受けたことがあった。
「あ、すみません。落ち着いて仕事をします」
「頼むよ」
と言って、踵を返した上司だったが、どこまで信じてくれているか疑わしい。実際に上司から指摘されても、自覚がないのだから、ハッキリと答えていたかどうかも疑問である。元々、考えていることが正直に顔に出るタイプなので、上司はその言葉をどこまで信用していたか、疑わしいものだ。
一人暮らしを初めて、そろそろ半年、寂しさにも慣れてきた。本当の寂しさは一人暮らしを始めて三ヵ月後くらいに襲ってきたが、最初は、
――いつまで続くんだろう――
と考え、考えれば考えるほど、寂しさが増していった。まさしく鬱状態のようだったのだ。
見えているすべての色が黄色掛かっている。それが鬱状態の時だ。その時も黄色掛かった世の中を見てむしろ、
――鬱状態なら、いずれ元に戻るな――
と感じたものだ。だが、その期間の長さをいかにして過ごすか、それが問題でもあったが、本当であれば余計なことを考えなければいいのだろうが、無駄なことをしていないと却って落ち着かないタイプの坂崎は、結構いろいろ考えていたようだ。内容までは覚えていないが、母親のことを考えなかった時はなかった。
一瞬にしていろいろなことを考えられるのが鬱状態の時かも知れない。自分としては寂しい時も同様、極限状態だと思っている。だからこそ、考えることを止めないのだろう。――考えている時間が一番落ち着く――
無駄と分かっていても、気を紛らわせるには、考えることが一番とまで思ったほどだ。
本当は反対なのかも知れない。
――無駄な行動だと誰が決めたのか――
そこまで考えていたが、価値観の違いだけのことである。だが、その価値観の違いを黙って見過ごしておけないのが母親だった。
「あなたの行動を見ていると、イライラしてくるわ」
よく子供の頃に言われたものだ。
まだ無駄な行動というのがどういうものか自分でも分かっていなかった頃だったので、
「そんなこと言われても、僕には分からないよ」
と、理不尽な言葉にしか聞こえなかったことを訴えたが、
「その口答えがお母さんには許せないの」
と、火に油を注ぐだけであった。
母親は考えるよりも先に行動に移す方だった。どちらかというと男勝りなところがあり、「そうでもなければあなたを育てられないわ」
と話していたほどだ。
「あなたは騙されやすいタイプでしょうから、気をつけなさいよ」
とも言われていた。最初はどうしてそんなことが分かるのか不思議だったが、
「あなたはお父さんに似ているの」
と言われて、何となく納得してしまった自分が変だった。
確かに考えごとが多い父だった。よく考えごとをしているところに話しかけて怒られたものだ。
「子供相手にそんなに必死になって怒らなくてもいいじゃない」
作品名:短編集95(過去作品) 作家名:森本晃次