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錯視の盲点

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「そういえば、あの時の作品は、映像を見ずに作ったのではなかったか」
 基本的には映像を見て音楽を作るという、いかにも当然のやり方が大半だったが。中には敢えて逆のパターンで挑んだこともあった。
 どうしてなのかというと、それは言わずと知れた、ワンパターンというものを払拭したかったからではなかったか。
 それでも、一度つまらないと言われたからで、自分の才能に限界を感じるほど、自分がそんなにたいそうな曲作りの人間だとは思っていない。プロでもないのだから、いくらアマチュアという言葉をつけても、それは思い上がりであり、作曲家などという言葉は恐れ多いと思っていた。
 それは小説の世界でも言えることで、テーマが先にあって、想像力がそれを補う。ただ、それは、すべてを一人でこなすという意味では、音楽や映像作品どとはまったく違っている。
 それだけに自由ではあるが、その先に進むにつれて、先が短くなってしまったりするように見えるのは、単純に距離や視界の狭さを反映しているだけではないだろう。
 映像には映像にしかできないこと、小節には小説にしか分からないことが存在しているからであった。
 作成している時は、
――俺以上の作曲家はいない――
 などと自惚れて書くこともあるが、後で襲ってくる自己嫌悪に陥ってしまうことが分かってくると、そう簡単には、自惚れることはなくなった。
 一種の、
「世間の目」
 を気にしているからなのかも知れない。
 いかに普段から音楽を意識しているかということがベテランになればなるほど重要になってくるのだろうが、それをずっと理解しているわけではなかった。
 自己嫌悪に陥れば、それがそのまま鬱状態にひることもある。躁鬱症を感じることが学生時代から続いている恭介にとって、自己嫌悪はあまり感じたくない症状であった。
 自己嫌悪から入ると、まずは鬱病を感じてしまう。鬱になると、仕事も何もかも手につかなくなるばかりではなく、食事をすることも眠ることさえ億劫になることさえある。
 ただ、鬱状態における睡眠は顕著であった。鬱状態における自分の一番楽しい時間と嫌な時間の両方が睡眠というものに対して与えられるのだ。まず、一番好きな時間としてであるが、
「寝る前」
 と答えるであろう。
 一番嫌いな時間としては、
「眠りから覚めた時」
 と答えるだろう。
 これを起きた時と答えないのは、寝る前と違って、目が覚めた時というのが曖昧に感じられるからだった。
 なぜなら、目が覚め李時の定義として、まずは、夢を見たか見ていなかったかということが問題になる。ただ、夢の場合は、目が覚めてから覚えていないというだけで、本当は夢というのは毎回見るものではないかという意識を恭介は持っているからだった。
 覚えている夢というのは悪夢が多く、楽しかった夢というのは、
――見たかも知れない――
 という残像のようなものが残っているくらいだった。
 しかも目が覚める時というのは、徐々に覚めていくもので、その間がどれくらいの時間なのか、ハッキリとしない。同じくらいの時間なのではないかという意識があるだけで、曖昧にかんじるため、恭介は逆の理論で、
「目が覚めるまでのプロセスの時間は、毎回寸分狂わず、ずっと一緒なのだ」
 と思っていた。
 それは楽しい夢であっても、怖い夢であっても、夢を一切覚えていない時であっても同じこと、そのシチュエーションや度合いによって、覚醒するまでの意識に誤差を生じさせるだけだと考えていた。
 鬱状態の時の目が覚めるというというのは、特に長く感じられる、
――置きたくないという無意識の抵抗なんだろうか?
 とも思っていたが、
「逆に一番嫌いな時間だという意識を持ってからは、鬱状態には嫌なことが意識的にできるようになるという特徴があるのではないか?」
 と思うようになった。
 ただ、そうなると、嫌いな時間を意識できるのであれば、鬱状態の時ほど自分の気持ちに向き合えて、気持ちをコントロールできる時もないという思いもあり、本当は嫌で嫌でたまらない時期であるにも関わらず、冷静に自分を見つめなおすこともできる時期ではないかと思うこともあった。
 もっとも、躁状態への変化も鬱に入った時も自分には分かる。しかも、鬱状態から躁状態に入る時は、鬱状態の出口が見えて、鬱状態に入る時には、鬱に入ってしまったことが分かるのだ。どちらも鬱状態の出来事であり、前者はトンネルからの出口、そして後者は、日暮れから夕方の喧騒と下雰囲気に、身体が感じる気だるさを誘発しているような、無意識に汗が滲んでくるそんな時間帯を意識させるのである。
 時間帯でいうと、鬱状態というのは一日の中での夕方に値する。日が完全に暮れてしまって漆黒の闇に包まれている夜であっても、そこは躁状態になるのだ。躁鬱症の中で迎える夜には決して夢などない。
「躁鬱状態こそが夢の中だ」
 という感覚があるだかだろうか?
 この感覚は、夢を覚えていないという感覚と似ている。ただ覚えている夢のほとんどが怖い夢であるため、楽しい夢はすべて記憶の奥に封印されるものだと考えているが、本当に楽しい夢というのが存在しているのか、躁鬱症に陥った時に、時々考えることであった。
 しかもこれを考える時は、鬱状態の時ばかりではない。躁状態になっても鬱状態の時に考えたことが継続されて考える唯一と言ってもいい発想だった。
「やはり躁状態と鬱状態とは、夢というキーワードで繋がっていて、だからこそ、一人の人間の中で行ったり来たりするものなのではないだろうか?」
 と感じるのだった。
 躁鬱症の正体がどんなものなのか分からないが、恭介にとって、切っても切り離せないと思う理由に、睡眠というキーワードがあるからだ、
「人間は睡眠を摂らなければ生きられない」
 誰もが何の疑いもなく感じていることであり、この思いは恭介にも他の人以上に強く持っていた。
 恭介と晴彦が出会ったのは、本当に偶然であった。あれは地元で開かれた花火大会の帰りだっただろうか。花火など興味のなかった恭介の方は、普通に帰宅しようと、派遣先の会社から電車に乗るために液に向かった時、思ったよりも人出の多さにビックリさせられた。
「どうしたことなんだ?」
 と思っていたが、その日がこの駅で一年で一番目か二番目に乗降者の多い日に当たっていることに最初は気付かなかった。
 もう一つの比較というと、元旦で、近くの神社が初詣で賑わう場所だということを知っていたからである。二日の紐それなりに多いのだろうが、二日の日に比べればその日の方がはるかに多いように感じられた。
 考えてみれば、近くには大きな川もあり、神社があるということは花火が催される条件に当て嵌まることに気が付いた。
 そもそも花火という儀式には、五穀豊穣の祈願も込められていると聞く。神社に五穀豊穣の行事があるのも当然のことで、全国にはここ以外でも五穀豊穣祈願祈願をこめての奉納花火というのがあるらしい。それを思うと、花火というのも立派な宗教的な儀式であると言えるであろう。
作品名:錯視の盲点 作家名:森本晃次