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錯視の盲点

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「躁鬱症というのは、本当に人格なのだろうか?」
 という疑問も生まれてきたりするのだった。
 また、一つ気になったのは、
「覚えられないということと、忘れてしまうということとを同じレベルで解釈してもいいのだろうか?」
 ということだった。
 どちらも同じ感じがするが、何かが違う気がする。考えると堂々巡りを繰り返しそうで、先が見えなくなるのが怖いのだった。

                 精神疾患

 今度は児玉恭介であるが、kれは大学時代に社会経済学を専攻していた。社会経済学を専攻した理由は、
「その大学では、就職に有利な学部だから」
 という、別に学問に対しての興味があったわけではない。
 したがって、大学で勉強はそれなりにして、それなりの成績で卒業したが、まったく身になっていたわけではない。
 社会経済学よりも、やはり映画音楽に夢中になった時代が、本当の大学時代だったということで、後から思い出しても、映画音楽を作っていたという思い出しか、大学生活に思い出など残っていないほどだった。
 大学生に入って、プログレッシブロックにのめりこんだ時代が懐かしい。あれからずっとやめなかった曲作りの日々、発表する機会がなくとも、懲りることなく、ほぼ毎日を曲作りのために費やす時間を作っていた。
 若い頃は、毎日一時間程度のものだったが、四十歳を過ぎた頃からその時間が倍増し、今では毎日三時間ほどになっていた。
 テレビドラマを見ては、後で自分なりに音楽を作ってみる。もっともテレビドラマの場合は、元々音楽が存在しているので、どうしても固定観念は免れない。したがって、録画しておいて、最初は音ありで見てみて、それ以降は音声なしにして、映像だけで自分の作品を膨らませていく、さらに映像だけではなく、小説を読んでは、そのストーリーから情景を想像し、そこから音楽を創造する。あくまでも数段階の「そうぞう」を重ねてくることで、音楽は育まれていくのであった。
 まず音楽には「小節」というものがあり、それごとに想像力を分散できるように思えた。元々小説は、
「楽譜ありき」
 の考え方であって、音楽を作る人間、演奏する人間の思惑を崩すことなく設けられているのではないかと思う。それは、
「音楽にはすべて拍子がある」
 というものであり、その拍子のひと塊りを、小節というのではないだろうか。
 その一つ一つの小節を把握することで、音楽は反復したり、その反復が強調という形でその曲を表す頃ができれば、少なくとも自分に満足できる曲を作ることができる。
 恭介は、最初の方こそ、いずれはメジャーな作曲家としてデビューしたいと思っていたが、次第にハードルを下げていき、今では、自分を満足させられるだけの曲ができればそれでいいと思っていた。
 しかし、実際に作ってみると、想像以上に自分を満足させることが難しいのということを分かってきた。
「自分を満足させる作品など、そう簡単に作れるものではない」
 何かに秀でた職人と言われる人たちでも、出来は素晴らしいのに、
「自分で納得できる作品など、十回に一回できればいいくらいだ」
 と言っているのを聞いたことがあり、最初はそれを、
「ただの謙遜だ」
 と思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。
 本当にその気持ちを持っていて、自分の作る極でも、確かに数十作品のうちの一つくらいだろう。そのうちにどの作品が自分を納得させられた作品なのかということも忘れてしまって、いつの間にか自分が惰性で曲というものを作っているのではないかと考えさせられる。
「曲というものは、情景を見ずに、音楽だけが存在すれば、情景を想像することってできるんだろうか?」
 と考えたこともあった。
 かなり乱暴な考えであるが、最近の恭介は、そのあたりの追求も考えている。特に音楽というのは、大学時代に専攻していた社会経済学などとはまったく違う世界で構成されていて、その中の世界にしか比較対象を求めることのできない、一緒の離れた学問とは違い、曲作りもその中に入る音楽の世界というものは、そのまわりにある大きな括りである芸術の世界の中で、別のジャンルと、密接なかかわりを持っている。そこが、経済学にはまったく興味を持たなかった自分が、初めて興味を持ったものだった。
「世の中には勉強以外に興味深いものが、想像以上にたくさんあるのかも知れない」
 そう思うと、音楽への興味はさらに広がっていて、プログレッシブロックとの出会いがその思いを現実化させてくれたような気がした。
 インディーズ映画の音楽を、同じインディーズで公募するという話があった。恭介は今まで温めていた作品の中から、いくつかピックアップして、試写で見た作品を思い出しながら、それぞれに当て嵌めてみた。
 しかし、一度完成させてしまったものを結び付けるという才能は、どうやら自分に備わっていないことに気付くと、
「新作を作ろう」
 と思うようになる。
 しかも、その方がしっくりくる。確かに出あがった作品から結び付ける方が容易ではあるし、効率もいいのだろうが、どうにもしっくりとはこなかった、そういう意味でも新作を作ることで再度新たに気を取り直すこということは、新しいものには新しいもので対抗するという自分のポリシーを裏付けるような気がするのだ。
 音楽以外にも映画を作品として盛り立てるためにはいくつもの段階を必要とする。
 まずは、企画があって、作品の大筋が決まる。脚本で細かい段落を作り、さらにアクターが演技を行い、映像に収める。それまでに演出、監督が携わり、編集作業の中で、音楽もいよいよ登場してくるというわけだ。
 恭介の作品は、オープニングの音楽やエンディング曲でもない。作中にある効果を高めるための、場面を彩る音楽である。
 作品を見てから曲を作るのが本当の筋と言えるのではないだろうか。
 歌詞のある曲であれば、まず歌詞が出来上がって、そこにメルディという曲ができ、そしてアレンジが出来上がることで、歌手が歌うことになるのだ。
 だが、ある作詞家は逆のパターンを取っているという、先にメルディを聴いてから、詩をそこに当て嵌める。考えてみれば、曲作りというのは、テーマが存在し、そこで曲をイメージするのであるから、先に曲があってそこから詩を起こすというのも決して無理なことではない。むしろ、その方が自然なのではないかと思えてくる。
「ただ、後から付け加える方が楽なのではないか?」
 と考える人もいるようだが、決してそうではない。
 先に出来上がっている方が、制約がなくて簡単であり、限られた範囲内で模索するのは、難しいようには思えない。
 ただ、それはあくまでもその人が感じることであって、物事を、
「楽や苦」
 という境界だけで判断するというのは難しいのではないだろうか。
 映画の場合だが、この場合はまず決めるのがテーマなので、映像に起こすのと、音楽を作成するのが、同時進行でも逆のパターンであっても、悪くないであろう。
 作詞作曲にも言えることが、映像と音楽というものにでも言えるのではないかと思った。ただ、大学時代に作った自分の曲が実際にウケなかったのは、
作品名:錯視の盲点 作家名:森本晃次