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錯視の盲点

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 中国というイメージを頭に描いてしまうと、お香の匂いや、北京にある紫禁城のイメージが頭に浮かんでくる。これも、以前映画であった「最後の皇帝」をテーマにしたものが頭に描かれたからである。
 ちなみに、その時の映画音楽を担当したのが、テクノポップの大御所と言われるバンドのメンバーであるということも大いに造詣を深めるに十分さであった。
 中国という国の広大さと同様、この時代における中国とのかかわりは、日本の歴史上、切っても切り離せないものであることはいまさら言うまでもないことである。
 中国音楽や、アジア系の音楽を聴くと、今度はワールドミュージックに造詣を深めようと考えるようになった。
 そうやって、音楽における、
「世界一周」
 を果たすことになったのである。
 そして、ワールド音楽の中にはアフリカや中東などの曲もあり、それを聴いていると、どうにも宗教的なニュアンスが強いのではないかと勝手に思えてきた。
 もちろん、欧州や、中国、アジア系の音楽も宗教と密接に結びついているように思えてならないのだが、特に中東などはイスラム圏というイメージで、まったく知らない世界が繰り広げられていると思うと、興味も深まるのだった。
 そして、ここにある程度音楽の暗るを網羅することができたと思うようになると、今度は、
「どの音楽に手を出す多」
 というのが、次の脅威になってきた。
 そして、晴彦が手を出したのは、実に以外なものだった。
――これを音楽としてジャンル付けしていいのだろか?
 そんな思いを抱いたのも無理もないことで、何と彼が次に手を出したものは、
「お経」
 だった。
 お経というと、淡々と経文を読むだけに思えるが、実は読経の最中にはリズムもあれば抑揚もある。そんなお経は、実に難しいように思われる、教本はそのすべてが漢字で書かれている。さらに抑揚もその時々で決まっているわけではなく、楽譜があるわけではない。そういう意味では、坊さんというのは、アーティストであると言っても過言ではないだろう。
 お経に走ったという人の話は、後で聞いたことがあった、その人も晴彦と同じように、いろいろな音楽を聴きまくって、最後に行き着いた先がお経だというのだ。
 お経の世界は、あくまでも宗教である。お経の目指すものは、お釈迦様や仏様の教えであり、ただ、そこにいろいろな宗派があるというのは、歴史を勉強していても、そのあたりの定義はできていないので、どうして宗派が生まれたのかという詳しいことまではよく分からなかった。
 だが、宗教というのは、種類があって。現世の人間を救うという意味と、死後の世界で救われるという発想の二つがある。しかしどうしても宗教と言うと後者のイメージが強いことから、音楽として考えるのは。無理があるような気がする。
 晴彦がどのようにしてお経に辿り着いたのか、無意識だった気がするのだが、それも導かれたと考えるのが、一番しっくりくるのではないだろうか。
 お経に走ったことをもし、自分が他人事として聞いたならば、
「ウケ狙いではないだろうか」
 と考えるに違いない。
 まともに真正面から受け入れようとしないと思えば、無関心になるということがどれほど怖いものであるかということを認識できそうな気がする。
 宗教というもの、歴史や音楽、どちらからも結び付けられるという意味で、無意識であるが、やはり導かれたと考えるのが無難なのではないかと思えた。
 そんな晴彦であったが、大学では心理学を専攻していた、人間の行動を分析し、心理を解明するということを主に研究していたが、主に臨床心理に近い研究をしていたと言ってもいい。
 あまり成績もよくはなかったので、ほとんど勉強したことが役に立っているというわけでもなく、ただ音楽をやるうえで、それなりに役立っているように思えた。
 大学を卒業してから、晴彦は薬品会社に就職したが、営業というものに、最初から向いていなかった晴彦に、薬品会社のプロパーのような仕事ができるはずもなく、三か月も立たないうちに辞めてしまい、新たに職を探したが、さすがにすぐに見つかるはずもなく、アルバイトでその日を暮らしていた。
 時間があるので、学生時代の心理学の本を引っ張り出して、図書館に行って読んだりもしたが、受けた講義すらよく分かっていなかったのに、今教材を見て分かるはずもない。
 それでも、読み込んでいくと、大学時代に勉強した意識がよみがえってくるもののようで、ところどころ覚えている。
 専門的なことまではさすがに覚えていないが、入門書と言われるものくらいなら、少しは分かる気がした。
 そもそも心理学を志したのは、高校の頃に読んだ小説で、ミステリーだったのだが、心理学を駆使した内容の本で、
「心理学を志してみるのも面白いかも知れない」
 と思わせるような本だった。
 内容は躁鬱症と、二重人格が入り組んだような話だった。躁鬱症と二重人格というのは、似ているようにも思うが、理屈からすれば、二重(多重)人格というものに、躁鬱症も含まれるという意識があった。
 だが、中には二重人格ではない躁鬱症もあるというもので、その意識を捜査員が持てるかどうかが、事件解決へのカギとなるのだった。
 小説を読みながら、晴彦は他人事のように漠然と読んでいた。その方が一点に集中して読まないために、袋小路に入り込まない秘訣だと思っていた。
 そもそもミステリーを読んでいて、犯人当てや、トリック解明などを楽しむという方ではなく、ストーリー全体を見渡して楽しむ方なので、作者のトラップに引っかかる方ではなかった。
 本当であれば、トラップに引っかかって、
「やられた」
 と作者の罠に敢えて嵌る方が本当はミステリーの楽しみ方としては楽しいのかも知れない。
 だが、晴彦はそんな楽しみ方よりも、本を冷静に見る方であった。余計なことを考えると、そこまでせっかく読み込んできたことを忘れてしまいそうになるからだった。
 まだ未成年だというのに、晴彦は忘れっぽい性格だ。ひどい時には風を引いてクスリを呑まなければいけない時、八時間置かなければいけないのに、前に飲んだのが何時だったのかをハッキリと覚えていないのだ。覚えていないというよりも、
「五時に飲んだのは昨日のことだったか、おとといのことだったのか」
 とm平凡な毎日を歩んでいることで、どれがいつのことだったのかということを覚えているつもりで覚えていない。
「忘れるはずなんかあるわけないではないか」
 という思い込みが覚えていないことへの伏線になってしまう。
 そんな晴彦が小説を読む時に忘れないようにするには、
「無理に自分が、と思わないようにすることだ」
 というのが、結論であった。
 小説を読んでいるうちに、忘れっぽいということに気付き、そして、大学に入ってから何を専攻しようかと考えた時、最初に思い浮かんだのが、自分の健忘症に対しての勉強であった。
 実益を優先するなら、心理学しかなかったのである。
 二重人格にない、躁鬱症、その答えは結局分からなかったが、躁鬱症にはある意味での制約があるようだ。
 鬱状態と躁状態を一定期間繰り返す。繰り返すタイミングを自分自身で分かる。
作品名:錯視の盲点 作家名:森本晃次