錯視の盲点
晴彦は、ビデオは知っているだろうが、レコードがあった時代を知らない。恭介から言わせれば、
「古き良き時代を知らない世代だ」
と言わせる世代だと言ってもいいだろう。
音楽業界においても、晴彦が生まれたくらいから、いろいろな変化があったと言ってもいい。だが、
「時代は繰り返す」
ともいう。
形を変えて、まったく違う音楽ではあるが、似たような風習が再度流行するというのは、一種の世の中における宿命のようなものなのかも知れない。
中学時代には、ユーロビートを聞いた。八十年代前半に一世を風靡したと言われる音楽をまず聴いてみた。小学生の頃はテレビの音楽番組で聞くか、学校で流れているクラシックくらいしか聞いたことはなかったが、小学生の頃は音楽に興味などなかったのだ。その頃緒テレビ番組は、基本的にはアイドルが中心だった。今のようにアイドルグル^ぷやユニットなどというのが出始めたことといってもいいだろうか。ダンスとおりませんた音楽が確立されていくのは、九十年代後半だからだった。
ユーロビートに嵌ったのは、友達に見せてもらったミュージックビデオが最初だった。今までのスタジオでアイドルが出てきて、司会者が曲紹介を行い、スタジオのどこからか観客もいないのに、不自然な拍手が起こる。完全に音声を作っているだけだった。
そんな歌番組とは違い、洋楽のミュージックビデオは違っていた。今は日本のミュージックビデオも洋楽と似ているようなものが流行り始めたが、当時日本にはミュージックビデオなるものがあっても、なかなかそれを放送するということはあまりなかった。せっかく高額をかけて制作したのだから、海外のようにミュージックビデオの専門番組があってもいいと思うのは晴彦だけだろうか。
洋楽のミュージックビデオは、有名な映画監督にお願いして作成したりするものも少なくない、元々曲のプロモーションを基本に製作されたものなので、音楽プロとしても、気合が入っているのは当たり前のことである。
プロモーションビデオの格好良さが晴彦を洋楽の虜にした。しかも、世額を聞いているということで、少し背伸びしている気分だったことも、音楽に入るにはよかったのであろう。
中学時代というと、友達の間でも洋楽派と、日本のニューミュージック派に分かれていた。ニューミュージックにはアイドルも入れていたので、どうしても日本の音楽を聴く気にはなれなかった。
しかも、日本の音楽でもカバーという名目で、海外の曲をアレンジして、まるで日本の曲のようにしているのが嫌だった。別に盗作しているわけはないのに、マネをしているということが嫌だったのだ。
せっかく音楽を作るのだから、オリジナルでなければいけないと思うのはいけないことなのだろうか。今まで音楽以外のことでも、誰かお¥のマネをするということは自分の中で、許されないことの一つとして考えてきた。
「楽してできてお、満足感が得られないで、何が楽しいというのだ」
というのが、一番の考えだった。
そお思いがあったから、日本のお額は好きになれなかった。中学時代にユーロビートから入って、ディスコ系の音楽、そしてラテンからフュージョン系へと、ジャンル的には共通背のない順番で聞いていった。
どれかに嵌って聴くということはなく、他のジャンルを聞き始めたとしても、それまで聞いていた音楽を聴くのをやめるというわけではなく、聞く教区の範囲が増えていくという感じだった。
だから、それまでは、
「狭く深くだったものが、広く浅くに変わっていった」
といってもいい。
そのうちに本当に好きな音楽が見つかればいいという考えで、なかなか見つかれなかったというのが実情だった。
「いろんな曲を聴いてみたい」
という思いがあったのも事実だろう。
そのうちに音楽のジャンルの中でも違うジャンルであっても、バンドのメンバ^の行き来があるのを知った。同じジャンルでは結構あると思っていたが、ジャンルを超えてそれがあるということは、今では別れてしまったジャンルが、あるのではないかということだった。
例えば、ハードロックやヘビーメタルなどと、実際には局長などまったく違うプログレッシブロックなどのバンドのメンバーが行き来していたり、アルバムでゲスト出演していたりする。
そもそも、ハードロックやヘビーメタルと、プログレッシブロックというジャンルでは音楽性がまったく違い、相いれないものだと思っていた。
実際晴彦は、
「ヘビーメタルは嫌いだが、プログレッシブロックは好きだ」
というタイプだった。
同じ人間が好き嫌いで別れたジャンルが、元は同じものだったとは、いかんとも信じがたいものだった。
プログレッシブロックというのは、元々がジャズやクラシックを融合したような音楽と言われているではないか。そもそもロックと呼ばれることに、晴彦は違和感を持っていたほどだ。
恭介の方はプログレッシブロックも聞いていたが、彼の場合は言うまでもなくクラシックから入った。しかし晴彦の方は、ジャズから入ったのである。
「クラッシックを聴く人は年を取ると、演歌を聴くようになるが、ジャズを聴いている人は、ずっとジャズを聴き続ける」
という話をしていた友達がいたが、晴彦がジャズを聴き始めたのは、その友達の影響だった。もっと言えば、音楽を聴き始めたのも、その友達の影響が大きかったような気がする。その友達とは小学生の頃からの腐れ縁で、中学に入っても同じクラスのことが多く、お互いに趣味の共有をしていた。
晴彦が本を読むのが好きだというと、
「どんな本が好きなんだ?」
というので、昭和のミステリーを教えてやると、彼はすぐに本屋で飼ってきて、読破していた。
その集中力たるや、羨ましいと言わんばかりであった。本を読むというのは集中力を必要とする。何しろ想像力が大切なので、想像力を養うためには集中力が不可欠である。また集中力が高まってくると、時間の感覚が短く感じられる。年齢とともに感じる時間の違和感を感じなかったのは、本を読んでいる時の集中力から、時間の感覚の短さを感じたからではないだろうか。
このあたりは、映画音楽を製作している恭介と考え方は似ているかも知れない。映像を見ながら音楽を製作するのも一つの想像力である。晴彦の場合は、本を読んでいて聞いている音楽でイメージを膨らませることで集中力を養っていった。
中学時代よりいろいろな音楽に染まって聞いていると、クラスメイトからも一目置かれるようになったことは嬉しいことだった。
「あいつに聞けば、音楽のことならいろいろ教えてもらえる」
という話が定着した。
ただ、それはあくまでミーハーのような日本の音楽やアイドルを除いての話であった。さらに、日本でも深夜の時間帯であるが、洋楽のプロモーションビデオを特集する番組が本格的に始まり、毎週楽しみにしていた。この情報に関しても誰よりも詳しいということで、晴彦は、生き字引であるかのように言われるようになった。
ちょっと大きな本屋にいけば、洋楽の歴史であったり、その中でジャンルがどのように推移してきたか。有名バンドメンバーの入れ替わりなどが書かれた本が置いてあったりした。