錯視の盲点
もちろん、芸術家である以上、どの段階で満足をすることなく、もっと自分を高みに置いて見るということは必要であるが、どうやらこの作曲家の人は、本当に自分の作品に満足していないようだ。
そこにはもちろん、編集の人が、映像のどこにその音楽を当て嵌めるかということに関わってくるのだろうが、決して当て嵌める位置に問題があるわけではないと、恭介は思っている。そうであるならば、本当に自分の音楽が気に入らないということであり、場面に沿っている沿っていない以前の問題なのではないかということだ。
それを考えた時、恭介は、
「これほど映画音楽を作ることって難しいんだ」
と思った。
一つには、最初に視聴者に対して、いかに違和感なく音楽を作品に浸透させるかということだ、最初に違和感を抱くことがなければ、きっと最後まで違和感を感じることなく見ることができるに違いない。最初に違和感を感じてしまうがゆえに、最後までその違和感が消えないということだ。
さらにもう一つは、作品全般に漂っている雰囲気が、最初から最後まで似たような雰囲気であれば、おのずと音楽も似た雰囲気に偏ってしまう。それによって、まるで以前にも見たような既視感のようなものと、デジャブを同時に感じてしまうことで、場面に応じて微妙に音楽を変えていても、その描写が同じイメージを作り出し、べ面同様、音楽もデジャブをさらに煽ってしまい、作品をさらにつまらないものにしてしまいそうに感じるのである。
そのことに最近では気を付けるようにしているが、インディーズの作品というと、以前からそうであったが、同じような場面をこれでもかと写し出す傾向にあるのではないかと思うようになり、作品がパノラマ上に見えるという錯覚を感じることがあった。
パノラマ上に感じられるということは、作品がいろいろな角度に見えてくるということだ。凹凸部分をいかに感じるかということで、見えている映像が大きく広がったり、一つに焦点を当てているような錯覚をもたらすことで、その錯覚が、
「自分の精神状態を、投影している」
ということに気付いているかというおとでもあった。
後でならいくらでも分かるのだが、実際に映像を目の当たりにし、そこにイメージとして音楽をつける時点では、普段と違う自分が現れて、言葉での表現が難しい錯覚を、当てられているのかも知れない。
「素人の作品というと、小説のような文章であるなら、かなりの想像力を掻き立てられる作品もたくさんあるというのに、映像にしてしまうと、どれもが同じように見えてしまうのは、小説の想像力を基準に考えているからではないだろうあ」
と、インディーズ作品に音楽をつけ始めるようになって感じたことだった。
だからと言って、映画館で公開されているようなメジャーな作品の音楽がそれほど優れているものだとはどうしても思えない。
「俺の作品とどこが違うというのだ?」
と誰ともなく言い聞かせてみたが、もちろん、答えてくれる人など誰もいないに決まっている。
インディーズの作品は、最初から最後まで徹底して同じシチュエーションで終始しているものもあれば、展開が早すぎて、最後は支離滅裂になってしまっている作品もある。前者はきっと音楽やセリフがなくても成立するような、ただの映像のドキュメンタリーでしかない。しかし後者は、何とか作品をいいものに仕上げようと、試行錯誤の上で出来上がったものではないだろうか。
そんな作品を、悪くいうだけの資格が自分にあるわけではないということを自覚している恭介であったが、いつも孤独で作曲していて、
「自分と同じようなことを考え、同じような立場にいる人など、他にあるわけなどない」
と思っていた。
新宮晴彦
児玉恭介が、自分と同じような立場の人間が他にはいないと思っていた頃、やはり同じように感じ、同じようにインディーズで燻っている男がいた。
彼の名前を新宮晴彦、彼は児玉恭介が五十歳なのに対し、彼はまだ三十歳ほどであった。一度会社に就職したが、どうも肌に合わないと思い、思い切って退職、派遣やアルバイトで何とか食いつなぎながら、インディーズで活動していた。
恭介は二十代くらいまでは、いつも、
「一人は寂しい」
といい、なるべく誰かにそばにいてほしいと思っていたが、思うようにはいかず、寂しさを感じながら、結局一人でいることが多かった、それでも三十歳を過ぎ、半ば近くになった頃から、やっと一人でいることに慣れたのか、他の人がそばにいることの方が鬱陶しく感じられるほどになっていた。
そのおかげというべきか、
「自分の人生が変わったのは、三十歳になってからではないか」
と思っていた。
その頃に実際に何かがあったわけではなかった、精神的に一人でいることに慣れてきたというだけnことなのだが、そのせいなのか、時間の感覚がまったく違って感じられるようになった。
三十歳くらいまでは、一日一日があっという間だったにも関わらず、一か月、一年という長いスパンで考えると、結構長かったような気がする。しかし、三十歳半ばを過ぎたことから、一日一日が結構長いような気がしてきたのだが、長いスパンで考えるとあっという間のことであった。
「じゃあ、三十代前半は?」
と聞かれると、それがハッキリとはしないのだ。
一日一日も長いスパンも、考えようによっては、長かったかのようにも感じるし、逆にあっという間だったような気がする、ただ一つ言えることは、一日一日であっても、長いスパンであっても、どちらにもそんなに差がなかったということである。つまりその間に感じられる思いは、曖昧だったとも言えるのではないだろうか。
児玉恭介が人生の境目を感じ始めた年齢に、やっと新宮晴彦は辿り着いたのであった。
昭和を知っている恭介と、二十世紀をほとんど知らない晴彦との間では、感覚も考え方もまったく違っているだろう。恭介から見れば、まだまだケツの青い若造にしか見えないだろうが、晴彦にしても、自分が歩んできた道が、その人のまだ半分近くであるという自覚があるため、遠い存在として見ていたことだろう。
ただ、どちらが遠くに見えていたのかと言えば、恭介の方ではないかと思うのだが違うだろうか。
確かに自分が歩んできた人生の時間を途中まで歩んできているので、分かる部分は大きいが、実際に、
「下から見上げるのと、上から見下ろすのでは、どっちが一緒でもどっちが遠くに感じるだろう?」
と聞かれて、どう答えるだろうか?
目の差書くと高所が恐怖であるということとを考え合わせると、後者の方が遠くに感じるであろう。さらに自分が歩んできた道といっても、実際には時代が違っていることを相手よりも分かっているだけに、その感覚はただの勘違いというだけのものではないような気がする。
晴彦は物心ついた頃にはパソコンは普及していて、さらにケイタイ電話も普及している時代になっていた。明らかにパソコンやケイタイ電話どころか、まだCDやDVDなどもなかったレコードの時代で、高校生くらいになってから、やっとビデオデッキを家でも置くというくらいの時代背景の違いがあった。