錯視の盲点
「ええ、そうなんです。お隣さんはスナック勤めのまだ二十代の女性で、一人暮らしの寂しさから小型犬のマルチーズを飼っているそうなんですが、実はあのマンションはペットを飼ってはいけない規則になっているそうです」
「じゃあ、苦情が出たんじゃないですか?」
「いえ、そんなことはないようです。管理人が寛容で、小型犬で、しかも大人しいイヌなら、別に文句は言わないようです」
「ほう、管理人は寛容なんだ」
と鎌倉探偵は少し意外そうな言い方をしたので、門倉刑事は少し変な気がした。
「でも、イヌを飼うというのは、確かに癒しにはなるんだけど、それで日ごろから隣人関係について悩んでいた李するなら、それはそれで本末転倒なことなんだけどね。そういうわけでもないんですか?」
「ええ、そういうわけではないと思います」
と門倉刑事がいうと、
「実は私も他の部屋で子犬を飼っている奥さんがいて、その人はこの事件とは何の関係もなく、部屋も実際には遠いんですがね。イヌを飼っているというのを知って少し聞いてみたんです。すると彼女のいうには、どうも管理人が怖いらしくて、隣人とのトラブルよりも、管理人さんに見つかると厄介だというような話をしていたんです。隣人のことでトラブルにはならないけど、管理人には気を付けるようにって、他の奥さんからは注意されたというんです。その人はそのマンションに引っ越してきてから、それほど時間も経っていないので、自分から近所の奥さんに近寄って行ったというから、肝は座っている人だと思いますよ」
と、鎌倉探偵は話した。
「そういう情報も得ていらしたんですね。でも、小型犬というのは吠えるというイメージがあるんですが、そのあたりは大丈夫なんですかね?」
と門倉刑事が質問したが、
「門倉君は犬を飼ったことがないんだったかな?」
「ええ、ないですね」
「じゃあ、分からないかも知れないけど、小型犬でも室内犬と言われるようなイヌは、完全に飼いならされていて、自分が人間だと思っている犬むいたりするくらいで、人間にとって都合のいいイヌが多いんだよ。だから可愛がられるし、癒しにもなる。室内犬と呼ばれる犬たちは、飼い主も人間と同じ目で見るんじゃないかな?」
「そうなんですね」
「例えばパグというイヌがいるんだけど、顔はブルドッグのような顔をしていて、いつもブヒブヒいいながら、鼾をかくイヌとしても有名なんだけど、このイヌは本当に人間になついていて、優しい性格なんだ。頭もいいし、まったく見た目とは違っていたりするんだよ。だからそのギャップが可愛いんじゃないかって思うよ」
「なるほど、そうなんですね」
門倉刑事はそう言いはしたが、パグろいう犬を想像することはできないでした。
「イヌと一緒に住んでいる人間というのは、一人の寂しさをイヌに癒してもらおうという意思が強いんだけど、一緒に住んでいると完全に家族なんだよ。女性だったら、母性本能からまるで自分の子供のように思っている人も多いんじゃないかな? だから彼氏よりも子供の方がほしくなるって人もいるかも知れない」
「そんなものなんですかね。私は男だし、イヌも飼っていないので、その気持ちは分かりかねます」
と門倉は少しいじけた様子で言った。
だから鎌倉探偵もつい面白がって話をやめるどころか、余計にまくし立てる。
「ネコを飼っている人もいるかも知れないけど、ネコは爪を研ぐから、よほど躾けておかなければ、いろいろなところを傷つけてしまう。だから、ネコよりもイヌの方がペットとしては最適なんだよ」
と言った。
「匂いなんかはどうなんでそうね?」
「室内犬であれば、お風呂場でシャワーを浴びせてあげれば綺麗になるし、シャンプーだってできる。臭いはほとんどしないんじゃないかな?」
「そんなものですかね?」
「それに、ネコにも言えるんだけど、表に出る時などは、かごのようなものがあって、それに入れておけば、電車にだって乗れる。さすがに女性には大きくて重たいカモ知れないけど、ペンションなんかでは、ペットも一緒に泊まれるところは結構あるので、ペットと一緒に旅行なんていうのも、素敵班じゃないかな?」
「前に泊まったペンションではペット可だったので、可愛いイヌを連れてきている人がいましたね、確か種類はシーズーだったと思いましたが」
と門倉氏がいうと、鎌倉探偵はニッコリと微笑んで、
「種類が分かるということは、門倉君も結構な犬好きなんですね」
「ええ、好きですよ。実際に飼っている人が羨ましく思えますね。でも、その飼い主が何かをすれば、ペットは放置状態になるのも事実、それを思うと可哀そうに感じられる気がしました」
と門倉氏はそう言って、悲しそうにうな垂れた。
昔、S慣れた経験を持っていると、なかなか自分がら飼おうとは思わないものですからね。実は私の母親もそうだったんです。イヌを一番かわいがっていたのは母親だったので、死なれるのを見ると、もう可哀そうで次は買えないと言いましてね」
「そうだろうね」
「私も刑事なんfて商売をしている関係で、人の死などは嫌というほど見てきていますが、動物の、しかも自分が愛玩している相手はまた違うんです。何というか、私には家族以上のものがありました。ただそこにいてくれるだけでいいというような感覚ですね。母性本能のようなものなんでしょうか?」
「そうかも知れないね。刑事だって人間なんだ。可愛いものは可愛い。そういうことだよ」
と、先生にそういわれると、とりあえず納得した。
イヌがいたのは、子供の頃でまだ田舎で家族と住んでいる頃だった。門倉が中学生の時、飼っていたイヌが死んだのだという。
「十五年も生きたんだから、老衰よね」
と母親は言ったが、確かにイヌの寿命とすればそんなものだ。
ということは、自分がちょうど中学生、
「このイヌは、僕が生まれた時に飼ってきたの?」
と母親に聞くと、
「ええ、そうよ、大体の寿命は聴いていたので、今くらいまでしか生きられないのは分かっていたわ。でも、その途中で病気や事故で死ぬかも知れないとも思っていたけど、よくここまで頑張ってくれたと思うは。お母さんはそれなりに覚悟はしていたつもりだったけど、やっぱりこの子に死なれてしまうと、もうこれ以上可哀そうで、他の子を飼おうとは思わないのよ」
と言っていた。
門倉は今ならその時の母親の気持ちが分かる気がする、自分が一人暮らしの中で寂しさからイヌを飼い始めたら、最後にはきっと同じ気持ちになるのではないかと思うからだった。
あの時のイヌの顔が今で忘れられない。何とも甘えたようば顔で、子供の頃のような甘えた声で力なく鳴くのだ。あれが精いっぱいだったというよりも、あの声があの子の気持ちだったのだろう。
「待ってるよ」
と言ってくれているような気がして、涙が止まらなかったのを思い出す。
「たかがイヌ一匹」
と、他の人はそんな風にいうだろう。