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錯視の盲点

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「ところでですね。管理人さんとは時々お話されていると伺ったんですが?」
 というと、彼女は一瞬忙しそうにしていた手が止まり、いかにも訝しそうな表情で、
「それは、今度の殺人事件と何か関係があることなんですか?」
 と、言ってきた。
 まったく関係のない話のように思えたので、彼女からすれば訝しく思われても無理もないことだが、何もなければ、別に話ができるであろうことだった。
「別にそういうわけではないのですが、管理人さんも第一発見者の一人ですから、管理人さんのことも少し聞いておきたいと思ってですね」
 と言われて、彼女はすぐに冷静さを取り戻して、
「そういうことですか。管理人さんは別に悪い人ではないですよ。少し気が弱そうなところはありますけど、まったく住民と接触しようとしない人に比べれば、まだいいんじゃないかって思います」
「管理人とはどのようなお話を?」
「私、実は内緒で小型犬を飼っているんですが、あのマンションは形式としてはペット不可なんです。でも、管理人さんはそれを許可してくださったんです。もちろん、他の住民から苦情がでないようにすることが条件ですがね」
 というと、
「でも、ルール違反なんでしょう?」
「ええ、だけど実際には他のお部屋でも小型のイヌやネコを飼っている部屋もあるんですよ。一人暮らしの人が多いですからね。もちろん、ハムスターのようなもっと小さな動物を飼えばいいんでしょうが、ハムスターのような動物は寿命が短いんです。三年くらいしか生きれないと聞いたことがあります。そんなに短かったらペットを飼う意味がないじゃないですか。確かに癒しはありますが、気が付けば寿命が来ていたなんて、本当に寂しいことだって思います」
「なるほど、それで何を飼っておられるんです?」
「マルチーズを飼っています。一般的な吠えないイヌとしては認知されているようなので、マルチーズを選びました」
「考えて飼われていらっしゃるんですね」
「それはもちろんですよ。私のように一人暮らしの夜の仕事の女性というのは、まず大体ペットを飼っています。お金のある人はペット可のマンションを選んだ李するんでしょうが、私のように中途半端な収入しか得られない人は、ペット可ではないところで内緒で飼っています。もちろん、バレると追い出されるという思いもはらんでいますので、余計に気を遣っていますよ。なるべくご近所さんとはトラブルを起こさないようにってね」
「おひとりで寂しい気持ちと、ご近所とトラブルを起こしたくないという気持ち、何となくわかります。でもですね、ご近所の中にはおかしな人もいるかも知れないですよね。例えば普段から毎日を何の変化もなく過ごしていて、いわゆる生きていても何ら楽しみもない退屈な人生だと思っている人、特に中年になってくればその感情が強くなるんじゃないかって思います。いわゆる『おばさん世代』というのはそういうものではないかと思うんですが、そんな人であれば、却って何かトラブルめいたことがあった方が、人生に張りが出てきて、と思う人もいるかも知れないです。特にそんな時に限って『おばさん連中』というのは団結するおのですからね、どこかの一人を『仮想敵』にしてしまって、それで退屈な人生から逃れようとする人ですね」
「なんとも苛立たしい気分しかしてきませんが、そんな人もいるんですね」
「ええ、そうですね。私は刑事という職業柄、そんなご近所トラブルで事件に発展したというのを何度か見たことがありますからね」
 と、その刑事は言った。
「それは本当に嫌ですわ。でも私もそんな話は知らなくても、マンションに住んでいる奥さん連中のことはウワサに聞いたことがあるので、本当にトラブルにならないようにしなければいけないと思っていたんです、もっとも、その情報をくれたのも、管理人さんだったんですけどね」
 と彼女は言った。
「ペットのことで、誰かに何かを言われたことはありましたか?」
「もちろん、直接はないんですが、管理人さんの話では、最近うちで犬を飼っているということに気付いた奥さんがいるということだったんです。だから気を付けてくださいと言われたことはありました」
「それがどこの奥さんだか分かりますが」
 と刑事に聞かれ、
「ええ、分かりますよ」
 と意外にも彼女は正直に話した。
 こういうことはなるべく話さないものではないかと思っていただけに、アッサリと言われてしまうと、今度の事件にまったく関係のない話になっているように思えてならなかった。
 ここまで来ると、もう話をしなくてもいいのではないかと思った二人の刑事は、
「事情聴取にご協力いただきありがとうございました」
 と言って、頭を下げると。
「いいえ」
 と言葉少なに答えた彼女を後目に店を出た。
 そして、少し歩いて駐車してあった車に乗り込むと、
「どう思った?」
 と、ハンドルを握った刑事が、助手席に座った刑事に話しかけた。
「そうだな。話を聴いている限りでは、別に怪しいところはないと思うんだけどな。ペットのことも普通に話してくれたし、管理人が許可してくれたということで、管理人に感謝しているということにウソはなさそうだし」
「そうだよな、マンション暮らしをしていると、しかも一人暮らしの多いところでは、必要以上にご近所トラブルを避けるものだよ。一度こじれてしまうと、まるで学校での苛めのようにネチネチと意地悪をされるという話もよく聞くことだしな。それを思うと、このマンションはまだ静かな方なんじゃないかな?」
 というと、
「そうかな? 俺はあまりにも静かすぎると思うんだ。少なくとも一人の女性が、マンションの規約違反を犯して、イヌを飼っているんだ。皆が皆イヌを飼っていて、自分のことを棚に上げてしまうというのであれな、それは仕方がないが、そうでないとするならば、波風がなさすぎる。嵐の前の静けさというべきだろうか?」
 と、助手席側の刑事が言った。
 どうやら、助手席側の刑事は、今度の事件に、ペット不可のマンションで犬を飼っているという女性の存在が気になるようだ。彼女自身に感心があるというよりも、それを何も問題にしていない、他の人たちの動きというか、見えている全体に違和感を抱いていて、ひょっとすると言葉にできない何かの矛盾を感じているのかも知れないと思うのだった。
 どちらかというと、ペットの件はあまり関係がないと思っている彼は、ただ、被害者がその彼女の部屋の隣だということが気になっていた。
 いくら静かだとはいえ、イヌを飼っているのだから、隣の部屋の住人が気付いたとしても、それは無理のないことだ。
 イヌというのは飼い主には忠実であるが、自分や飼い主に危険が迫れば、思い切り吠えて、相手を威嚇するものである。マルチーズのような小さなイヌであってもそれは言えることで、何かのはずみで吠えることもあったに違いない。
 運転手側の刑事は、彼女が犬を飼っていたことで、被害者がどのような感情を抱いていたか、それは彼女に対してなのか、それともイヌに対してなのか、はたまた管理人という立場にあるにも関わらず、簡単に許してしまう管理人に、苛立ちを覚えたのか、そのあたりが気になっていたのだ。
作品名:錯視の盲点 作家名:森本晃次