錯視の盲点
彼が無音音楽をどうして作ろうと思ったのか分からない。晴彦のように、音楽を網羅し、最終的に行き着いた場所だったのか、時代としては、さほどまだ音楽が複雑化されていなかった時代だったろうから、却って選択肢が少なかったことだろう。そうなると、彼には選択肢など関係なかったのだ。彼の中の理論が自分の中の組み立てた独自理論を忠実に建設していき、そこから生まれたのが、この曲だったとすれば、晴彦の考えている発想はまさに、
「現代のジョン・ケージ」
と言えるのではないだろうか。
ここで一つ、ジョン・ケージの有名な言葉を紹介しておく、
「私が死ぬまで音はあるだろう。それらの音は私の死後も続くdあろう、だから音楽の将来を恐れる必要はない」
ペット不可
最近では、ペット可のマンションも少なくはないが、晴彦のマンションはペットは不可であった。小動物で鳴かない動物であれば、少々はいいのかも知れないが、イヌやネコの類は基本的にダメである。
もちろん、中には小さな室内犬を飼っている人もいるようだが、もちろん、管理人にもまわりにも黙って飼っているのだ。ハムスターくらいであれば、別に問題はないのだろうが、さすがに小型犬とはいえ、チワワやシーズーなどの大人しいイヌでも基本的にはダメである。
ここの管理人は、どちらかというと寛容な方なので、ペットを独自に飼っている人も少なくなく、管理人は感謝されていたりした。
晴彦が殺されるという事件が起こり、それまでまったく近所のことなどに無関心だった住民が少し慌ただしくなっていた。殺された人がどういう人なのかなど、誰も知らず、警察の聞き込みでも、何ら情報はご近所さんからは得られなかった。
だが、そんな中で、少し変なウワサがあった。それは晴彦に関係のあることではなかったが、ある部屋のご婦人の話の中で、
「実は、殺された男性の隣に一人の女性が住んでいるんだけどね。私はあまり会ったことはないのよ。その人はいつも夕方くらいに出かけていて、真夜中に帰ってくるのよ。たぶん、夜の商売なんじゃないかと思うんだけど、どうも管理人さんと一緒にいるところをよく他の人は見たことがあるっていうんだけどね。あのダサい管理人さんと夜の商売をしているようなあの女性が関係あるとは思えないんだけど、何か気になると思ってね」
と、若い刑事は聴きこんだのだが、事件と直接関係のなさそうな話なので、門倉刑事のような先輩に話すこともなく、彼の中で揉み消した形になっていた。
実際に隣のご婦人にも聞き取りは行われた。昼間だったので、ちょうど寝ていたようなので、まともに事情は聴取できなかったが、
「私に話を聞きたければ、ここにいらして」
と一枚の名刺をもらった。
どうやらスナックに勤めているようで、しょうがないので、他の人の聞き取りが終わってから、夜に出向くことにした。
店は九時開店だということなので、八時過ぎに行けば、開店前の忙しい時間かも知れないが、営業時間に聞く話でもないし、ましてや、就寝中という昼間に訪れるわけにもいかない。時間とすれば、この時間しかなかった。
刑事が店を訪れると、当然ながら店の看板も出ておらす、ただ玄関が少しだけ開いていて、その奥の電気が申し訳程度についているだけだった。スナックなのだから、基本的に電気はくらいものであるが、その暗さとは違い、白色蛍光の明るい電気が一か所だけついているだけというありさまだった。
中途半端に少しだけ開いている扉に手を掛けて、刑事二人が中に入ると、カウンターの奥で開店準備をしている彼女を見ることができた。
「昼間はお休みのところを起こしてしまって、申し訳ありませんでした」
というと、昼間とは打って変わって丁寧な化粧が施された、年齢的にはまだ二十代を思わせる女性が顔を表した。
昼間は髪もボサボサ、目の焦点はどこにあるのか分からない様子で、表の明かりが相当眩しいのか、手を目の前に翳して、いかにも眩しさを避けている様子だった。
「いいえ、昼間はこちらこそ失礼しました。今も開店準備なんかもあって、少しバタバタとしていますが、昼魔の時間のように意識が朦朧としているわけではないので、お話はできと思います。ただ、見ての通りの状況ですので、座ってお相手はできかねますが、そのあたりはご了承くださいね」
と、彼女は丁寧に頭を下げた。
――まだ若いのに、しっかりしておられる――
と刑事は感じた。
場末のスナックで雇われホステスをやっているくらいなので、もう少し態度が散漫なタイプかと思えば、どうしてどうして、刑事は少し場末のスナックと言えども、少し見直して見なければいけないと感じていた。
「お隣の新宮さんが亡くなったそうで、私もビックリしています。あのマンションは賃貸マンションで、家賃もそんなに高くはないので、いろいろな方が入居されていると思います。それだけに隣に誰が住んでいるかなど、たぶん誰も気にしていない人が多いんじゃないでしょうか? 部屋の間取りから考えても、一人暮らしの人が多いとも思っています。築も結構経っているので、新婚さんが新居にするというわけでもないでしょうし、若い独身者であったり、サラリーマンの方でも単身赴任者であったり、私のように、女性の一人暮らしの人もいるかも知れません。でも、たぶん少ないだろうとは思いますけどね」
と彼女はそういうと、
「どうしてですか?」
と刑事は聞き返した。
すると彼女は少しため息交じりで、
「だって、女性の一人暮らしって怖いじゃないですか。あのマンションはオートロックでもないので、入ろうと思えば誰でも入ってこれる。風俗やキャバクラなどに勤めている女性なら、怖いだろうから、マンションを借りる時には、オートロックが必須でしょうね。私は普通に場末のスナックに勤めているだけなので、そこまでの危険はないと思っています。そういう意味で、あれくらいのマンションがちょうどいいんですよ」
と言っていた。
「ちなみに、新宮さんとは面識はありましたか?」
「いいえ、ほとんど会ったこともなかったですね。お互いに行動パターンが違うので、偶然、部屋の前でバッタリなどということはあったかも知れませんけど、どんな顔をしていたのかということを記憶しているほど記憶に残ったわけではありません。相手も同じなんじゃないでしょうか? マンションに住んでいる人なんてそんなものですよ。特にオートロックのマンションなんか、もっとひどいんじゃないですか?」
若い刑事は、それを聞くと、
「世知辛い世の中なんだなぁ」
と、いまさらながらに感じた。
今までいろいろ事件の捜査をしてきて、マンションの聞き取りは正直嫌だった。ほとんどまともなほしい情報が得られた試しがなかったからだ。
「他の住人の方とも、同じなんですか?」
「ええ、そうですね。ほとんど出会うことはありませんよ。たまに仕事帰りのサラリーマンの方と私が出勤する時に出会う程度ですかね。お隣の新宮さんとも同じ感覚でしか出会っていませんから、他の人とも同じです」
やはり、この女性からも期待できる事情は聴きとれないようだ。
一緒に来ていた刑事が、口を挟んだ。