錯視の盲点
自分が鬱状態から抜けたと意識したのは、朝目が覚めてからだった。会社で一日過ごしてみると、明らかに前の日とは精神的に違っていた。躁鬱と繰り返していない時の鬱状態から抜ける時であっても、普段であれば、抜けるということは分かるものだったが、その日は分からなかった。やはり少しとはいえ、酔いが残っていたからであろうか。
自分も予知できないほどの鬱状態からの脱出を演出してくれたのが、あの時助けてくれたおじさんだと思うと、あの時だけの知り合いではもったいない気がした。別に利用しようという意識があったわけではないか、せめて、もう一度話をして、鬱から抜けることができたのが、この人のおかげだと意識したいという気持ちがあった。しばらく出会えなかったが、自分から探そうとまでは思わなかった。やはり偶然の出会いという演出がなければ、自分が確かめたいと思っていることは成立しないと思ったからだ。
もし、これが友達の少ない人だったら、わざとを装ってでも出会いたいと思ったかも知れない。それは友達が多いと思っている晴彦だから思うことで、実際に友達の少ない恭介などは、
「友達が増えるのは、億劫だ」
と思うことだろう。
友達を自分の中で精査しているわけではないが、好きになれないやつと一緒にいても、それは友達ではない。億劫なだけで、相手も同じように思っているに違いない。実際に躁鬱症を必要以上に感じているのは恭介の方だけに、鬱になったことをまわりに知られたくないという思いがあることで、その時は、
「友達などいらない」
と思うのだ。
足が攣って痛くてたまらない時、まわりの人に知られたくない心理、それに似ている。下手に知られて、心配な顔をされると、余計に痛みが増すからだ。
――こいつ、人の気も知らないくせに――
と感じるからで、その思いは、時々感じることだった。
いつも同じ心境の時だとは限らないくせに、その気持ちに陥る時が分かる気がする。それはまるで鬱状態から躁状態への入り口に立った時と似ているような気がした。つまり、時g九のトンネルから解放されるイメージを逆に感じるような印象だった。
恭介にはあの時の晴彦が、鬱状態にいたのではないかと思っていた。一緒にいる時には分からなかったのだが、彼と別れて一人になり、真っ暗な車窓を見ながら、孤独を感じていると、その原因が先ほどの男性にあることに気付いた。
最初こそ、
――余計な気分を与えやがって――
と、せっかく助けてやったのに、災いを残していくなど、最悪の極致に、苛立ちがあったのだ。
だが、そのうちに、その苛立ちが膨れることもなく、次第に収束していくのだった。人を助けたという満足感のようなものがあったからだろうか。いや、今までにそんなことで満足感など味わったことはなかったはずだ、
年齢的にももう五十歳近くなっているというのに、最近では先が見えてきているとまで感じているくせに、どうかすると、まだ二十代と精神的に変わっていないということをふと感じさせられ、その思いが却って自分の実年齢を意識させることに繋がるという負のスパイラルに陥らせていた。
――やはり、一人だけでいることでm比較対象がないから、そんな風に感じるのだろうか――
と思えてならない。
もし自分が誰かを求めているのだとすれば、今出会った人は、死ぬまで友達でいられる人なのかも知れない。それがこの間の彼であればいいのにと思ったのだ。
恭介が今まで友達を億劫だと思ったのは、離婚が原因だったのかも知れない。
二十代で結婚し、三十五歳の時に離婚した。子供はいない。それが唯一の救いだったのではないか。離婚するまでは、自分が人生の高みに向かって、ゆっくりだが、徐々に上っているように思えた。そして、このゆっくりという上り坂が実に心地よかった。
上り坂はを上るのは、下り坂を下るよりも楽だと思う。なぜなら、下る時は、一気にいかないように、セーブする必要があるからだ。上り坂にはセーブの必要がない。下りが楽だと思うのは、見せかけに騙されているからではないだろうか。
晴彦が元気になってくれたのは、恭介にとって何よりであり、友達になれたら、もっといいのにと思っていた。
晴彦の方がまずそのボールを投げたのだが、
「あの日まで精神的にきつかったんですが、あの時助けていただいたおかげなのか、鬱状態から抜けれたような気がしているんですよ」
「おお、それは何よりです。私も躁鬱症には悩まされることが多かったので、その気持ち分かるような気がします。躁鬱症の時は、入る時も抜ける時も、その前兆のようなものを感じるからですね」
「ええ、まさしくその通りなんです。あなたにもそれが分かるんですね?」
「ええ」
晴彦はその感覚は自分だけだと思っていた。
他の人にも言えることなのかどうなのか、気になるところではあったが。こんなことを聞いて、変な目で見られるのが嫌だった。だが、この時の晴彦は決して嫌な顔をすることもなく、同じことを感じている人の出現に、素直に嬉しそうな表情を浮かべていた。
「こんなことを考えているのは、僕だけなのかなって思っていました。でも、そうじゃないと分かると気持ちのいいものですね。もっとその人の話を聞いてみたくなります」
「うんうん、その通りなんだよ。ある日突然、躁鬱症のような状態に陥ってしまったという意識はあるんだけど、後から思い返すと、それがいつのことだったのかって、ハッキリと認識できているわけではないんだよ。だから、勘違いだったんじゃないかなって思うこともあった。でも、そんな時に限って繰り返すんだよ。躁鬱の状態がね。しかも、来る帰す時の節目が分かるんだ」
というと、
「ええ、分かる気がします。僕は大学で心理学を専攻していたので、それらしきことは分かる気がするんですy。ただ、学説の中には本当に自分にも当てはまるのだろうかと緒もyことも結構あって、ハッキリと信じられないところが多いですね」
と晴彦は言った。
「やっぱり、趣味を持っているというのはいいことなのかな?」
と恭介がいうと、
「そうですね、趣味はいいですよ。私もあの日、助けていただいたあの日から、また趣味を再開しましたからね」
と晴彦がいうと、
「どんなご趣味なんですか?」
と、話の流れで恭介は聞いただけだったが、
「曲を作るのが好きなんです」
と晴彦が言い終わる前に、ビクッと自分が反応したのが分かった。
「おお、曲ですか、それはいい。実は僕もそうなんですよ。映画音楽のようなものが作れればいいなんて、大それたことを考えていましてね」
と、相手に他の人が作曲するような歌詞があって、曲があるというそんな普通の作曲だとは思われたくない一心で、最初から、聞かれもしないのに、自分から答えたの。
「実は僕もそうなんですよ。映画音楽のような壮大なものではないんですが、何か組曲になるようなものであればいいような気がしてですね」
と晴彦は答えた。
「やっぱり音楽っていいよな」
恭介は少し遠くを見るようにして答えた。
「ええ、そうですね」
きっと、この時の晴彦の視線も、同じような高さだったにだろう。
同じようなものを見ようとしていたに違いない。