錯視の盲点
プライバシーの問題だけではなく、最近では共同生活においても、いろいろ変化が起きてきた。特にボミの分別などによるトラブルはある意味日常茶飯事と言ってもいい。最近ではあまりにも多いので、管理人の出る幕がないほどになってきたが、それを単純に手放しで喜んでいいのかどうか、実に困ったものである。
――どうしたらいいののだろうか?
管理人は、頭を抱えてしまうことが多かったが、それは彼が真面目すぎるからではないだろうか。
管理人は、あくまでも今回は部屋の住人を訪ねてきたという訪問者の付き添いに過ぎない。実際にカギを開けるのも訪問者の判断であり、もし、新宮氏が部屋にいたとしても、それは管理人としても、電話に出ないということを心配しての行動だから、もし警察に咎められても問題はないはずだ。
特に、一緒に入る同行者、いや、今回の主役は彼である。同行者の樋口氏が証人である。
「とにかく、電話に出ないということがきになりますね」
「ええ、それに会社にも無断欠勤、マンションから出た様子が見あららない。となると、これは少々怖いですからね。本来なら警察をとも思うんですが、もし倒れてでもいれば、一刻も早く警察をと思うじゃないですか」
「そうですね。とにかく部屋に行ってみることが大切です」
と言って、二人はおそるおそる歩きながら部屋の前まで来た。
「新宮さん」
管理人が扉を叩いたり、呼び鈴を鳴らすが返事がない。
このマンションはオートロックのような設備はなく、もしカギがかかっていなければノブを回せば扉はあく。
果たしてノブを回すと扉があいた。部屋の中からもチェーンがかかっていないようで、いかにも部屋の中には誰かがいるということを示していた。
だったら、電話に出ないとか、部屋の呼び鈴を鳴らしたり、扉を叩いたりすれば何かしらのリアクションがあるはずだ。
そして気になるのは扉に刺さっていた新聞である。今日の朝刊がそのまま刺さっているではないか。少なくとも玄関まで来て、新聞を取り入れるということまではしていないということだ。
そう思うと、最初の懸念が頭をもたげてくる。明らかに変である。
玄関を見る限りでは荒らされた様子はない。元々掃除が嫌いな方ではないのだろう。チリ一つ落ちていないほどというほどではないが、それなりにキチンと整っている。靴が散乱しているということもなく、狭い玄関にキチンと並べられている。様子としては、玄関から見える範囲だけではおかしなところはなかった。
「新宮さん」
管理人は靴を脱いで中に入る前に、再度声を掛けた。
しかし、その声に対しての反応は一切なく、二人はそのまま靴を脱いだ、
中に入ると、まず管理人は身体が硬直してしまって、動けなくなってしまっていた。声も出せないのか、後ろから見て、少し滑稽に思えた。ただ、
「ハァハァ」
と呼吸困難を演出しているのだ。
「どうしたんですか?」
と後ろから声を掛けると、よほど集中しているのか、それとも、後ろからの声が聞こえていないのか、ビクッともしなかった。
身体を揺すると、やっと気が付いたのか、
「あ、あれを」
と言って、訪問者である樋口は、管理人の身体によって差抉られていた前を見るに至ると、今度は自分が息を呑んでしまって、声を発することができなかった。
「あれは、死体?」
と、分かり切っていることを口にしたが、被害者は一瞬誰なのか分からないという感じだった。
何よりも、その姿にビックリさせられたのだが、それは普通の死体ではなく、身体を縛られていて、しかも、逆さづりにされているのだった。
そばによるのも恐ろしく、床には夥しく飛び散ったであろう、飛び散った血糊が真っ赤になって残っていた。
それを見ると、すでに殺されていて、死亡したのは、ついさっきではないかと思われる。血糊がこれだけ真っ赤になっていて、まだ変色していないのだとすれば、数時間も経っているなどということはありえない。
二人は警察に連絡し、なるべく現場を荒らさないようにするために、一度部屋を出て、警察の到着を待った。
警察はそれからすぐにやってきて、あたりをすべて閉鎖して、まずは、部屋の内部の捜査に掛かった。そして刑事課の連中が集まってくると、本格的に事情聴取などが行われることになったのだが、その頃にはある程度、第一発見者である管理人と、樋口氏も平常心を取り戻していて、事情聴取に応じられるくらいまでにはなっていた。
警察からは、お馴染みの門倉刑事もやってきていて、被害者の部屋を一通り検分してから、この部屋の異様な雰囲気に閉口しているようだった。もちろん、それは被害者の不思議な有様に対してであり、状況にビックリしているわけではなかった。
今までにも陰惨で猟奇的な殺人を見てきているので、少々のことで驚くことはないが、目の前に不思議な死に方を見ると、ビックリするというよりも、まず考えるのは、犯人の心境であった。
「これは猟奇殺人なのか、それとも犯人による怨恨の酷さを表しているものなのか、それとも、我々警察の捜査を混乱させるものなのか」
門倉刑事は、そのうちのどれかであろうと思った。
死体を吊るしているものは、舞台セットのようなものだった。きっと死体が重たいので、運んできてからここに逆さ吊りにするために必要だったものなのだろう。
門倉刑事は、久しぶりに殺害現場で挑戦のようなものを受けたことで、意識が高ぶっていた。だが、もしこれが警察を混乱させるものであるとするならば、なぜに逆さ吊りを考えたのだろう。ここに何かの意味があるのではないかと考えた。
この状況を見て即座に、
「鎌倉探偵の好きそうな事件だな」
と直感した。
なるほど、元小説家の鎌倉探偵であれば、自ら乗り出してきそうな事件であった。
ともあれ、鎌倉探偵のことは横に置いておいて、まずは捜査に入らなければならなかった。
「そこまで分かっているのかな?」
と門倉刑事が、先に到着していた部下の刑事に聞いてみた。
「はい、まずは死因ですが、胸に突き刺さっているナイフではないかと思われます。ただ、首のまわりにも扼殺痕がありますが、これはこのセットを作る時についたものかも知れないということで、何とも言えないところです。このあたりは解剖の結果を待たなければいけないと思います。死亡推定時刻ですが、死後、六時間から八時間くらいではないかと思われますので、早朝だったのではないかということです」
「もし、早朝だったら、近所で物音を聞いた人がいるかも知れないよな」
「はい、今それも含めて、近所に聞き込みを行っているところです」
「被害者の身元は?」
「はい、この部屋の住人である新宮晴彦、三十二歳。派遣会社に登録されていて、今は事務の仕事で、M商事のK支店に勤務しています。今日彼は仕事を無断欠勤しているようです」
「なるほど、第一発見者は? さぞやこの儒教で発見したのだから、腰を抜かしたことだろうね」
というと、刑事は手帳を見ながら、